次の世紀もPerfume

小幡績

1967年、千葉県生まれ

東京学芸大学附属高等学校卒業
2年浪人
1992年、東京大学経済学部主席卒業、大蔵省入省、1999年退職
2000年、IMFサマーインターン
2001年、ハーバード大学経済学博士(Ph.D.
2001年-2003年、一橋大学経済研究所専任講師
2003年 - 現在 慶應義塾大学大学院経営管理研究科(慶應ビジネススクール)准教授

凄まじい経歴の持ち主ですが、彼がPerfumeについて言ったことが
「今年はPerfume   来年もPerfume    次の世紀もPerfume

隣のアナウンサー、笑っていますが、
小幡績氏の言っていることは、全部正しいです。むしろ、テレビ用にディープな話端折っているようで物足りない。


西洋というのは、キリスト教社会であり、近世以降キリスト教の破綻が目につくようになったらヒューマニズムという人間の理性万能主義に傾いていった社会です。
ヒューマニズムというと、「人の命を大切にしょう」という考え方だと日本では誤解されていますが(そういう側面は確かにありますけれども)、人間主義と直訳してみると、「神の代わりに人間の理屈が、人間の理屈が、人間の理屈が・‥」というものすごくクドい思想だということが伝わると思います。

もともとキリスト教自体、神の似姿として人間を作った、というくらいでして、だから、人間以外の動物は食べても大丈夫、といいますけれど、
その夜郎自大な思想の末裔がシーシェパード捕鯨反対だったりします。
彼らは一見エコロジックな団体に見えるかもしれませんが、実のところ、イルカやクジラは人間に近いから食べてはダメ、クジラやイルカを食べることをやめて牛を食いましょう、という人たちです。

こういうことを行っている人たちが数十年前までは、「黒人は人間の内には入らない」とかいっていたわけです。その後ろめたさの隠蔽として反捕鯨があるのだろうと私は見ています。

日本人にも差別心はもちろんあるでしょうが、それでも、さすがに、「黒人は動物なみ」とかそういう話にはならんでしょう。
「あいつらへん」とか「あいつらくさい」みたいないじめレベルの差別の発展系はありえたかもしれませんが、「黒人は人間のカテゴリーには入らない」と明言するような精神は持ち合わせていない、いなかったと私は考えています。
やなせたかしの「みみずだっておけらだってあめんぼだって・・・」という歌がすんなり受け入れられてしまうことを考えてみましても、
「エチオピア人は文明人とはみなせない」とムッソリーニが明言して、それで沙汰止みになった西欧人とは日本人の考え方は伝統的に滋賀うことはわかると思います。


「イルカやクジラは知的で人間とコミュニケーションを取れる生き物。彼らを食べるのは可哀想。どうして日本人はこんなに可愛い動物を食べるんでしょう?牛を食べればいいのに」

この典型的なシーシェパードの言いぐさ、腹立ちません?



ひとつの理由としては、豚も牛も言葉を話すことは出来ないかもしれませんが、ちゃんと生きており、彼らの行動パターン思考パターンは、意識と呼んでいいのかどうか曖昧ですけれども、人間にかなりの部分が読み取れます。
どんな動物でも、彼らの行動パターンを解析すると、言語以外の方法でそれなりのコミュニケーションをとることは可能なのですね。
匂いを使い、温度を使い、形や色を使い、言語未満の音声を使うことで、私たちは、彼らと何らかのコミュニケーションをとることができます。

イルカやクジラが知的だから人間と共存することができるが、牛豚は下等だから人間の食い物、その発想どこから湧いてきたんですか?ということです。
牧場にいって見りゃ、誰だってわかるだろうに。どこの牛や豚が好き好んで切り刻まれて食品になりたいってんですか?ってことです。


真面目な話、ベジタリアンに「イルカとクジラ食べるのはやめて!」と言われる分にはまだ理解できますが、「どうして日本人はイルカやクジラのような知的でかわいい動物を食べるの?牛や豚を食べればいいのに」と言われると、西洋人の心の病というのは歴史的に根深いものだなと思わされます。


私は海沿いの町に住んでいますが、クジラやイルカを食べることが日本の伝統だと思えるような地域ではありません。近所の港に上がるのはアジとか鯖みたいなものばかりです。
そして子供の頃に給食で食わされたクジラの肉の味を考えるに、あんな不味いもんを食うことが日本の食文化の伝統と言い張るような連中に対してもウンザリです。

私が、このような状況の中で実践していることというのは、

週に一日か二日しか肉を食べない

一応、肉は食います。それは何故かというと、人間が原人からクロマニヨンに進化した時期には、肉食が開始され、過剰なカロリーを脳で消費できるという条件が人間の進化を促した、という説を聞いたことがあるからです。確かに肉食うと妙に元気が出るもんです。
もし私たちがみな野菜だけで生きているんだったら、数世紀後には私たちはもう一度霊長類のお仲間レベルに退化するかもしれません。
それ以外にも、人類の歴史を鑑みるに、食料の確保というのは、とても難しい問題でした。
ある場所では、植物性の食料は豊富ですが自然災害が多い。
ある場所、例えば砂漠ですが、植物性の食料はゼロですから、家畜を飼うしか食料自給の方法がない。

だから、ベジタリアンが、自分たちの方法を考えの異なる人たちに強要することは間違っています。人間は日々の糧を得るにとんでもない努力をしてきた数万年の歴史があるのですから。
あなたたちの思想は、たまたま植物性の食料を供給できる土地に根ざしたものに過ぎないだろう?
そういうことです。

いや、意地の悪い本音を言わせていただくなら、
西欧は食物を植物から摂取できるほどに身なりのいい土地ではありません。
ベジタリアンという思想自体、インドからいただいたものに過ぎないではありませんか。
本来、ベジタリアンを真面目に実行していたら西欧社会なんてローマ帝国以前に消滅している存在です。
今まで散々黒人や植民地の人間を動物そして扱ってきた後ろめたさを、根無し草的にインドからいただいてきた思想を使って、動物愛護の美名の下に日本や中国に対して自分たちの暗い過去を投影している、非生産的な態度にしか思われません。


野菜や穀物のならない地域もあるのです。
そういう個々の風土差を無視して、ベジタリアンサイコーとか言っている人たちは、私から見ると、歴史についてもっと学べとしか思うことができません。

そして、反捕鯨を唱えるベジタリアンがいたらどうなのか?ということですが、
「あなたたちは、食物連鎖で下位の動物を食って生きる鷹や鷲を殺して回るのですか?」ということです。

「神はいない、だから人間の理性サイコー、人間の理性サイコー、…」
西欧でそう思っている人は、さすがにトップレベルの人にはいないでしょう。
こういうシーシェパードレベルの人等のは中途半端なレベルのひとだけです。


あなたたちの思想というのは、人間の理性サイコーという、レベルの低いものでありまして、
そりゃ一見整合性は取れているかもしれませんけれども、
前提となる人間の理性サイコーって部分は、どうなんですか?ということです。
人間の理性サイコー、人間と近い動物は人間並み、だから魚は肥料でOK、こういう思想のキモさというのは、
前提となる人間の理性サイコー、という点です。

だったら理性的な考えを放棄したらいいのかということになりますが、
私たちは、常に前提が崩壊する「もしか」の時を想定に入れて思考を重ね行動すべきではないのだろうか?


つづく