小幡績氏のブログ経由の方々へ  私びっくりしちゃいましたよ。

ここ最近、一般人レベルでなんの小細工もしてないブログがありえないアクセス数もらってるんですけど、

それ、全部高名なエコノミストの先生のおかげなんですね。

そんで、さっき、その恩人のブログ見てみたんですよ。

彼、今日、桜見ながら宇多田ヒカルのこと考えてたんですね。


実は、私も、桜見ながら宇多田ヒカルのこと考えてたんですよ。
なんで、宇多田ヒカルのこと考えたかというと

この2分49秒からの間奏、ビートルズのインマイライフっぽいんですけれども、

これって、春になって花が咲き乱れることの音比喩になっているように感じませんか?

わたし、そう思ってるんですけど、


前、書いていることなんですが、
Perfumeって声を機械処理されている故に、
人間は、ほかの人間の声とかぬくもりとかに優先的に知覚が働くという条件を剥奪されている、らしい、
それゆえ、
遠くて奇跡でもない限り届かない想い、が演出されている

それゆえ、彼女たちの声は、テクノサウンドの中に埋没しがちなんですけれども、
逆に、
私たちは、
あの完全に無機的なテクノの音に、人の声でも聞くようなリアルな実感を持ってしまう瞬間があるんじゃないでしょうか?

この2分49秒目の間奏の入り方は、
本来ヴァーチャルで無機的なコンピューターの世界に、桜の花が咲き乱れる奇跡を表現している、
というか、
そう感じるように、条件を操作しているように私は思ったんです。


上手いな、
中田ヤスタカ、やってくれるぜ、と思いながら、桜並木を歩いていたんですが、


こういう、複雑なあり方ではなく、単に単純に歌だけで、この情感を表すことはできるんだろうか?
宇多田ヒカルだったら、歌だけでPerfumeにどこまで迫れるんだろうか?なんて思ったんですね。


PerfumeがA面なら、B面は宇多田ヒカルがアコギだけで同じ歌を歌う、ということやったら、いいんでないの?
なんて思いました。

でも、ミュージシャンってエゴ強いからな。
でも、
椎名林檎だったら、やるかもしれない、なんて思いまして。



私がそんなこと考えていたとき、小幡績氏も宇多田ヒカルのこと考えてた、って、何よこれ?


ほんと、今まで、考えてみたこともなかった。自分って、隣にいる人と大差ないのだな、と。