シンクロ二シティとPerfume  

これまた、私にとって示唆的な曲です。


このブログ読んで面白いと思った人、日にち遡って見ていただけるといいのですが、
この一ヶ月とちょっとPerfumeのことばかり書いていますけれども、それ以前は、中学受験の事書いているんですね。

なんちゅう、迷走したブログやねん、と思われるかもしれませんが、

ちょっと話飛びますけど、

私、パフュームのファンになって二日目に、スピーカーの正面にデスクが来るように部屋の配置替えしたんですよ。そんで部屋の中が明るく、機能的になったんですが、

その晩見た夢ってのが、部屋がとっちらかってて困っているところに、昔好きだった女の子と、中学の同級生(あんまり仲良くなかったんですが)がやってきて手伝ってくれる。
女の子の方なんか、頬っぺにチューまでしてくれる。同級生は、「NHKの番組ひとつやるよ」とか約束してくれて、
なんか、すごくむちゃくちゃ嬉しくて、
もしかすると夢かもしれないと、ホッぺつねってみるんですけど、夢の中で夢だと気がつけない。

そんでも、だんだん目が覚めてきて、寒々とした窓の外を眺めたら、
夢の中の方がリアルに感じられたんですよ。
そのあと半日くらいずっと夢の中の方がリアルな感じが継続してたんですが、

リアルに感じると申しますが、強い感情、それもリアルな感情が付随すると夢ってリアルさが段違いになるんですね。


そんで、その楽しい気持ちを反芻しながらPerfume聞いてたんですが、

その夢の中に出てきた同級生ってのが、このブログの初期の「石原千秋は熱い漢」ってところで「かりんとう」の授業を受けた時の私の隣に座っていたやつなんですわ。


そんなんもあって、「俺はこのブログにperfumeについて思うこと全部書かないといけない!」と思うようになっていたんでしょう、今になって考えると。


パフュームを知る ――> よく聞こえるように部屋の机の配置替え ――>掃除の夢を見る ――> 自分にとってのアイドルだった女の子にチューされる 昔の嫌な思い出が精算される ――>パフュームについて猛烈に書き始める


という文脈を私は、さっき発見してしまいました。
Perfumeは一見迷走しているように見えて、非常に合理的な組織である、とさっき書きましたが、
私にしたところで、無意識に自分の行為を任せてしまうと、めちゃくちゃ合理的な文脈で行動しているのがわかります。

これがユング心理学で言うところの無意識というやつで、フロイトとは違い、
無意識とは原書的な生命感の横溢したもので、基本は健全なもんであるということです。
私もそう思います。


本当に素直な気持ちになって何でも受け入れようという態度をとると、人間は成功への路をあるきはじめる、パフュームの奇跡の原因のひとつにそういうことがあるのかもしれません。


そして、パフュームについて書き始める前に私が書いていたことというのは、「日本人と日本社会へのネガティブな思い」だったのですが、パフューム以降は「日本人の伝統的なやり方には見直すべきものがちゃんとあり、西洋文化との間でもっとしっかりしたバランスをとっていくべき」と修正されていきます。

それは、自分が自分の周囲に肯定的な見方ができるようになったということで、楽しいことなんですが、

その一方、このブログの迷走ぶりの中に、一本筋のピンと通ったものがあります。

「熱い漢、石原千秋」のところで、わたしは、延々と氏の著作から引用し、それに対しいちいち、そうなんだそうなんだ、ほんとそう。と共感を述べておりますが、そうすると、ご本人から「正確に理解してくれてありがとう」みたいなコメントをいただくんですが、

このブログでやってることって、基本、こればっかりなんですよ。
わたしは、この人の意見に全く同意できる、ということばかり何辺も何辺も書いています。
そして、パフュームのパフォーマンスが理解できると書き続けています。
そして、私が同意できるだけでなくて、「死にたい奴は死ぬ前にネカフェPerfumeきいて小幡績氏の語り聞いてからにしろ」って書いたら、
「この人なんでわかったんだろ、迷ったらパフューム、困ったらパフューム、とりあえずパフュームって思いついたときは、死んだらどうなるんだろうと考えてた」って書かれるんですよ。

それ以外にも、「あんたは二年前の俺と同じことやっているよ」という書き込みもありましたし

そして、自分でも他の人がパフュームについて書いているところ探して読んでみると、私の書いた文章とほとんど同じことがいくつもいくつも見つかるのですね。

挙句の果てには、このブログで引用している『ロックンロールの自殺者』

歌詞の最後のところ、
「君は一人じゃない、すばらしい、手を取ってくれ」ですわ。


自分は多様な見方でいろんなことを書いているように錯覚していたんですが、たったひとつのことしか書いていなかったんですね。


Perfumeの音楽とダンスについて書いていることもたった一つです。

彼女たちのダンスは、歌の歌詞とポリリズム的にずれている。そしてポリリズム的に一致する箇所がある。
わたしは、どうして、Perfumeが泣けるのかの秘密に今気がつきました。

それはポリリズム的あり方というのは、この社会そのものだからであると。

私たちは、互いに自分たちの人生を生き、限定された視野しか与えられていないのですが、本来何の関係もなかった人たちと、同じ時に同じことを考えることなんていくらでもあります。そしてズレたことをしている時もありますけど、ピタリとハマる瞬間に喜びを感じているものです。

パフュームがステージの上でやっていることというのは、人間社会のあり方を表現していたのであり、
もし世界がこのように美しいのであったなら、という願いだったのでしょう。

こういう認識に到にあたり、一度自分の自我を疑ってみる、そうすると生き生きとした人間社会の構造が見えてくる、私にはそう思えます。



そして、今になって思えば『ジギースターダスト』というのはキリスト教的世界観ではなく、原始仏教
的な思想が支えていることがわかります。

苦しみは如何にして発生するか、
そしてそれはどのように進展するか
そして、それを取り除くことはいかにして可能か?

じつは、デビッドボウイって、出家する手前まで行った人だったんですね。
ロックスターというキリスト教の異物みたいな存在とそこから派生した西洋の近代を、仏教的な方法で
乗り越えようという試みの一つだったんだなとわかるのです。










そして、まさか、パフュームに人類の未来の鍵がある、なんて思わないでしょ?
通常は、見ることのできない文脈、常識的にはありえないはずのストーリー展開、
ユングの言っているシンクロ二シティとは、こういうことだったのだな、と私は今強く実感しています。