パフュームの奇跡についての心理学的考察

この本、面白いです。私図書館で借りて済ませてしまいました。誰か私の代わりに下条真輔氏に印税を差し上げてください。


サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

作者: 下條信輔
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2008/12
メディア: 新書
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この本の中で、どういう文脈で出てきたのか忘れてしまいましたが、人間って悲しいからなくのではなく、なくから悲しいと認識する、のほうが正しい場合が多い。

心理学で大昔に、悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか の論争があり、
当然のごとく 悲しいから泣く の方が勝ったんですけれども、

実は逆の場合多いんですね。自己観察を子細におこなってみても、泣いているから悲しいと初めて認識することかなりあります。


パフュームってアイドルとしては、どちらかというとブサい方なんですが、じつはそれ、奇跡のポイントの一つなんでしょう。

A アイドルのくせにブッさー
B だったら美人三人連れてきて、同じことやらせてみろ。そんでお前がマネージャーやって稼いでみろ。

みたいなネット上の会話があるんですが、
もし、パフュームが誰が見ても美形のアイドルだったら、どうなるかというと、

彼女たちの芸能に対し観客が非常にポジティブなものを感じた場合、もし美形だったら、
その感動というのを、ルックスに帰してしまいやすい。
「俺って、こういうタイプが好みかも‥・大の大人がうりゃホイうりゃホイ」で終わってしまう場合が多いと思います。

彼女たちの芸から受けるポジティブな感じに対しルックスという単純な逃げ道を塞がれている為に、とことん真面目に彼女たちの芸に向き合わさせられることになるんですね。こっちが泣くまで許してくれないんですよ。

自分の中に湧き出す漠とした感情、整理の付いていない気持ちに、「だってタイプだし」というデータの圧縮された記号ラベル貼ることができないんです。

もし、パフュームがもっと美人だったら?と考えると、ぞっとする。

もうひとつ言うと、
パフュームって詞がむちゃくちゃな場合が多く、音声機械化されている上に、口パクですから、歌の中の言葉をあまりまに受ける気にならない。従来のポップミュージックのような言葉の伝わり方していない。

わたしたちは、彼女たちのパフォーマンスに対し、歌詞という便利な記号でラベリングすることもできないまま、自分の中の生身のとりとめもない感情に向き合わさせられる。

彼女たちが「崖っぷち」状態で退路立ってるんですけど、実は私たちの側も彼女たちに対して言い訳許されていないんですよ。



下條真輔氏の本は、私が映画の研究してる時に参考に読んで、スゲー面白かったって印象だったんですが、
内容で覚えているところって、「泣くから悲しい」の方が妥当な場合が多い、って一行だけだったんですが、


世界中どの文化でも言語と音楽は存在していて、無論その内容や様式は異なるけれど、基本的な構造はほぼ同じ。たとえば言語なら主語・述語・目的語から成っているとか、単語を組み合わせて文章を作るだとかの構造は同じ。あるいは音楽なら「オクターブ」に相当する概念や、それをいくつかに区切った
音階、そしてリズム(+歌と踊り)から成る構造は世界共通。これらにより言語と音楽は、論理的な記述機能と情動の表出機能という、社会を営むのに必要な2つの要請によって、元は一つだったものがそれぞれ枝分かれしてきたのではないか

というようなことを書かれていたことをすっかり忘れていました。

今は、ネットを使うと瞬時に色んな人とアクセスすることができるようになり、人の意見から学び引用
ることで、私たちの頭の中は他人と似通ったものになってくるって認識は当然だと思っていますけれども、本とかレコードみたいなアナログなメディアしかなかった時代でも、コミュニケーションが成立している限り、自分の考えることと他人の考えることが似ているというのは、学ぶための元ネタがどっかにあり、そのうえ個人の性格のタイプが似ているのなら、当然のことなんですね。



視覚データと聴覚データって大脳の容量的にはどうなんでしょう?八対一みたいなことを苫米地英人氏が言っていたような気がしますが、どうやって測ったるのかはわかりませんけれども、
とにかく視覚データの方が圧倒的に大きい。
DVDとCDの容量から考えると、10倍以上は当然だろうと思うんですが、

いちいち人間は、そんな大量のデータを脳で処理していると疲れますから、記号に変換してデータ容量削ぎ落として処理しているのだろう、と私は考えています。

かしゆか というと、彼女の個性、彼女の生い立ち、彼女の過去現在未来が内包されている存在なんですが、一人の女と普通名詞にデータ圧縮してみると、ものすごく気楽に、彼女の隣を通り過ぎても、何らドキドキすることのない状態になれます。

・私はかしゆかのそばを通り過ぎた。
・私は一人の女のそばを通り過ぎた。

目の前の光景に対し、「昨日と同じ光景」「つまらない光景」「ちょっと薄曇り」というような言葉による圧縮を行うと、
オオバコの色とか、石ころの光沢とか、そういうもの全部、意識できなくなってしまう。ないものと同じになってしまう。
というか、無意識の中にのみ止め置かれていることになるのだと私は考えています。


実は、映像作品が常常行なっている洗脳の方法というのは、これと同じことでして、映像にストーリーというわかりやすいオトリを仕込むことで、大量の視覚刺激を観客に無意識的に受容させている、ということです。あれやられると効くんですよ、泣かされるんですよ。


物事を言葉で表現しようとすると、データ処理が楽ですから、それらを何階建てにでもつみあげることが出来、複雑な論理を構築できるという点では便利なんですが、

個々の段階で削ぎ落とした大量の部分がありますんで、自分が望んだ伝えたいものがうまく相手に伝わらない、自分の一番伝えたいものがそぎ落ちて、本当は割とどうでもいいことをデータ圧縮して言語化してしまうことがあります。



自分の漠とした感情を言葉でデータ圧縮した際にこぼれ落ちてしまったものを、拾い集める行為が、歌というものだ、と私は、ここ数日間そういうことを考えていまして、
言葉という音声記号に対し声色や抑揚やその他のもの、言語表現という記号とはそぐわないものを付随させ、言葉化する前の右脳で処理する原初的な感情を再生する行為が、歌うことなのではないだろうか?


Perfumeって、私にそういうことを考えさせるのですよ。



そして、同時に、知恵袋かどこかに書いてあった話、

質問 会社から帰ったら、妻にDVDとCDを全部割られていた。買いなおすなら離婚すると言われました。

どうしたらいいでしょう?

答え 私はヤフオクに勝手に出品されてしまいました

答え 氷結のCMになるとチャンネル変えられます

みたいな話も大好きなんですね。

「結局はかしゆかのふとももだろ?」的な部分無視したらPerfumeって成り立たないんですよ。

こんだけ太もも露出して踊っている女ぼーっと眺めてて、奥さんに怒られないってありえんですよ。

自分はアイドルとしてのパフュームはどうでもいいとか、ファンというよりかは研究対象というふうに自分の気持ちをデータ圧縮することはできると思いますが、

この圧縮の際に、太ももに色気を感じて、それゆえに交感神経が活性化され長時間の思考と著述が可能になっている、というのは私の場合絶対ありますよ。