『ワンルーム・ディスコ』 まだ完成してない文章


私たちの頭ん中は視覚イメージ処理する脳細胞がいっぱいあって、聴覚細胞はあんまり多くない。
となると、視覚イメージを処理するときは、「この光景はこういうもんだ」という偏見によってデータ圧縮しがちなんですが、
聴覚データを処理するときは、あんまりに容量が少ないんで、勝手に視覚イメージが去来しやすい。


よくある歌詞は、物語をつくって、その光景を聴く人にイメージさせるものなんですが、
物語のよくわからない音楽だと、かなり変なことになるんですよ。

『ワンルームディスコ』には明確な物語があるんですが、
新居のワンルームで一人で踊っている女の子の物語なんですが、
詞の世界を直接に踊っている女の子の映像で説明し切ってしまうという、従来の詞のあり方を完全に逸脱した手法が用いられています。
いい加減で、出来上がっていない空欄だらけの歌詞を三人に渡して、その空欄をダンスで埋めていく、
そういう手法が取られています。

新居に引っ越して、不安なんだけど、なんとかなるって思いもある。

下手な歌って、そういうところに力入れてしまうもんなんですけれど、
この場合も、確かにそういう行はあるのですが、
一人で荷物も解いていない部屋で踊っている女の子の気持ちを三人の踊る姿だけで説明する。
女の子がどんな希望を持っているのか、不安や辛いことに戦っていけるのかを踊る姿で説明する、

これ見たとき、私はやられたと思いました。

彼らの中での協調作業はどのようなものなのかがよくわかります。
如何にに私たちは言語の縛りにやられていたんだろう?

私の場合は、言葉通じない海外経験が長いから、こういうことに気づくきっかけが与えられていたのでしょう。

わかってないやつって、ほんと、多いんですよ。
言葉にガランしめにされている馬鹿って多いんですよ。