ああ、プラスチックみたいな恋だ

もう、自分でも何を書いているのかわからなくなってまいりました。

なんで、そうなったのかというと、パフュームのあり方って、言葉と音楽の解体、つまり人類の文化の解体なんだなと。

言葉を解体されたら、もう、何も言うことがない。しかし軌跡は続いていく、ってとこですか。



実はこの三曲は、すべて同じ事を言っています。



「私とあなたは大差ない、あなたの気持ちはよくわかる」


そして、おそろしいことに、三つのうちの上から順に、歌詞が恥ずかしい。



大いなることに成功し、誰かの友となり、
優しき伴侶を得た人は歓喜の声に唱和せよ!

そうだ!この地上でただ一つ、パフュームしか愛することが出来ない者でも!

そして、出来なかった者は、この集いから泣きながら立ち去れ!



私は、今現在、かなりの人から頭がおかしい人間と思われていると思うのですが、でもさすがに、ここまで言ったら、精神安定剤を処方してもらうために、病院に連れて行かれるだろうな、ということくらいはわかりますよ。



そして、この第九の歌詞のこっぱずかしさというのは、
西洋文化のイタいところなんだな、自我というものにとらわれすぎて、言葉でひたすら個性を説明しようとしすぎるとこに由来するんだろう、と私は思う。


しゃべればしゃべるほど、自分と他者の差異が明確になり、それゆえに孤独になり、
本当は自分と他人は似たようなもんという事実に気がつかなくなっていく。


「ああプラスチックみたいな恋だ」
私が火曜日にごみの集積所に持っていく納豆のフタとかもやしの袋って、英語では全部プラスチックと呼ばれるもんで、
「なんじゃ、このリサイクル推進のキャンペーンソングの歌詞は!」と唖然としながら、私はパフュームに感動していたんですが、

こういうクソみたいな一行を挟み込まれることで、私たちは、『ポリリズム』の歌詞とそのメッセージに対して全く受身のとれない上体に置かれていた、そして、この一行が私たちに言葉というものは、コミュニケーションの手段のひとつに過ぎないということに築かせてくれるとともに、
実は、「プラスチックみたいな恋」のプラスチックの単語に無機的で人工的という安直な意味があるだけでなく、可塑的でなんどもよみがえるという意味を持ち始める、

そういうことを自覚的にねらって作詞したんだったら
私は、
中田ヤスタカのことを天才と認めよう、この世に天才がいることを認めよう、という気になっているんですね。
でも、私の考えでは、パフュームってそういうもんじゃないんですよ、天才という個人がすごい業績を成し遂げるというあり方ではなく、
ボンクラを何人も何人も感動でつなげることで、天才しか出来ないと思われていたことをやすやすと実現してしまう、そういうユニットだと思っているんですね。

中田ヤスタカ氏には申し訳ないけど。