パフュームのライブって、催眠術 

「あなたは眠くなる、眠くなる‥・」
――あったりまえやんか、5時間しか寝とらんわい(日本人は先進国30ヵ国中2番目に睡眠時間が少ない)

「あなたは、お腹が減ってきた、もうペコペコで、お腹がグーグーなっている」
――そりゃ、もうすぐ12時だがね、お腹も減るわさ。


「はい、体が、ぐらぐらしてきた」
――片足立の不安定なポーズをとらせといてそれはないやろ。


あほらしい話ですが、これが催眠術の基本です。



当然の成り行きでそうなるはずのことを、催眠術師が命令した故にそうなったと錯覚することで、催眠術にかけられる方は、段階的に深みにはまっていく。









ヒプノ・ボード。単純な渦巻き絵だが、これを一定速度で回されると、目が焦点を合わせることができない。これだけを見つめていると、焦点が合わせられない上に、白黒の単調なコントラストが目に残像として数秒間残り、視覚が歪められる。これ自体は、当然のことなのだが、
催眠にかかるとは、この作為的な方法で朦朧とした状態におかれたことにたいし、その視覚の朦朧さを自分が眠くなって意識レベルが落ちてきたからだと勘違いすることである。

私たちは、このような単純なトリックで、眠気を催されるとは想定していないから、こんな単純な方法で催眠に導かれていく。

もちろん、このヒプノ・ボードを使う場合は、周囲を暗くして、この渦巻き模様以外が被催眠術者の目に入らないようにするのがより効果的である。

また、BGMは単純で短い二つの旋律が延々と交互に繰り返される。このような反復メロディは円回転のイメージと親和性が高い。




聴覚からの催眠はこのように行う。単調な旋律、単調なリズムのを何度も繰り返し、聴く者に時間の感覚を徐々に麻痺させていくのだが、二つの旋律を組み合わせる際に、特に片方の旋律を歪ませて曇った感じにしてしまう。
音域的には、耳につきやすい方をよりはっきりと鳴らし、耳につきにくい方を歪ませると、より効果的だ。そうすると、音楽が恣意的に歪められていることに対し、聴く者は注意が向きにくくなり、このトリックに気がつかない。
これを聞いていると、自分の聴覚が鈍ってきたように感じられ、意識が朦朧としてきたと錯覚しやすい。そうなると被催眠術者は半分眠った時のようになりがち。
この場合は、汽車からの光景を視覚情報に使っていて、これは単調な光景の繰り返しであり、心を落ち着かせ、秘術者をここちよい眠りに導く。

人を安眠に導く催眠術には、どこにも何一つ悪意が存在していない。いわば白魔術のようなもの。


これらを組み合わせ、実際の対人場面で用いるとどのようになるだろう?
これを見ていると、軽い催眠術にかかるのは普通であるが、どう転んだところで大した影響はないのでご安心を。

『竜崎式催眠術』
これは催眠術の説明でありながら、その説明が催眠術になっている。

・何故、くもりガラス越しごしに話すのか?
それは、朦朧とした視覚を与えることで、被術者の勘違いを引き起こし朦朧とさせるためである。

・なぜ音声がくぐもった処理をされているのか?
それは、朦朧とした音声を与えることで、被術者の勘違いを引き起こし朦朧とさせるためである。

・なぜ、字幕が出てくるのか?
声がはっきりと聞こえないから、字幕が必要になる。そして朦朧としていく意識の中で、その文字を読むために苦労し、そのことが被術者が催眠にかかった自覚を促す要因になる。

・彼の動作は、なぜ大げさで威嚇するようなものが多いのか?
それは、私たちがコミュニケーションするときには、相手の言葉だけでなく、その態度身振りを見て、その人物の心を探ることに慣れているからだ。意識水準が低下してくると、言葉を理解することが難しくなってくる。そうなると、動物並みの原始的な身振り手振りのコミュニケーションがより強い影響を示し始める。
彼は、朦朧としていく被術者の心に積極的に身振り手振りで語りかけ、そして時折威嚇するような素早い動きを取り入れ、催眠術にかかっていく者に、自らの力を誇示している。

・彼は、なぜ恥ずかしげもなく、セックスの話ができるのか?
朦朧として、ぼんやりとした意識の状態、たとえば夜中に揺すり起こされたときに相似した状態であり、私たちは、難しい話ができるだろうか?
そういう場合には、私たちは単純な話しかできない。そしてレベルの低い欲望水準の話しかできない。眠い、食べたい、やりたい、かちたい、わらいたい、こういう欲望に油を注がれると、被催眠下の私たちは、そのように意識を誘導されていきやすい。


そして、もういちど、今度は、画面をロールアップして、くぐもった画面がうつらないようにして見てみる。そして音声をミュートして、字幕だけ読んでみる。
彼の説く催眠理論を理解する為だけなら、この字幕を読んでいるだけで十分なはず。しかし、ここには催眠効果はもうどこにもなくなっている。残っているのは、まどろっこしくて、スッキリと整理されていない日本語であり、唐突に始まるセックスの話への違和感だけである。


警告
大画面、まともな音響装置で、なんの心の準備もなくこれを見てしまうと、血圧の高い人には負担が大きいので先にタネをバラしておいたほうがいいと思う‥・。
単調な刺激が数十秒続いて錯覚から勘違いを引き起こされ、見ているものの意識レベルが低下して、半分寝ぼけたようになった後、
、画面は突如として『エクソシスト』の悪魔にとりつかれた少女の顔に切り替わる。そして女の絶叫。

心のものすごく深いところまで恐怖が飛び込んでくるようだ。いたずらで使うべきものではない。



催眠模様と人の目を重ねる。目の催眠効果とは、人は本能的に競争相手に勝ちたいと願っており、それゆえ、対決の前段階のにらみ合いの勝負で目をそらしたくはない。
催眠術師は、このにらみ合いに負けないように訓練を積んでいる者たちであり、普通の人は一分間に20回以上のまばたきをする。それに対して、役者や催眠術師は、一分以上瞬きをしない訓練を積んでいる。
この視線のやりとりだけで、私たちは、対面の人に、心理的に優位に立つことができ、そしてその優位が相手を催眠に誘導する条件となる。



パフュームのライブには、これら催眠術の技法がいやと言うほど詰め込まれている。そういうよりも、催眠術の技法だけで成り立っていると言うほうが正しいだろう。

ヒプノボードに相似したモノクロ模様の明滅、赤と緑の補色関係のレーザー、白の照明の明滅、高速で画面に飛び込む文字、これらはすべて視覚に残像を作り出し、錯覚を生じさせるきっかけになる。
そしてその錯覚の原因を、パフュームとそのステージングへの畏怖と感動に観客は勘違いしていく。
音楽については、催眠術のヒプノボードのBGMと大差ない。ズンチャ・ズンチャ・ズンチャ・ズンチャのの繰り返し。

この二系統の刺激により、私たちの時間感覚も徐々にずれ、意識水準は低下し、暗示にかかりやすくなる。そしてこのリズムは平常の脈拍よりも早いリズムであり、観客がこのリズムに心臓鼓動を同調させるならば、軽度の興奮状態におかれることになる。
催眠術は、被術者を常に眠くさせるわけではなく、興奮に導くこともある。
そして時間の感覚は興奮するほどに長く感じられるようになる。
楽しい時間は早くすぎるとは言うが、心理学的にはそれは違う。人に興奮状態を作り出しドキドキさせたほうが、主観的には時間ははるかに長く感じられる。小学校の注射を待つ列にいる時を思い出して欲しい。あの緊張で心臓がバクバクいっていたとき、どれほど時間が長く感じられただろうか?そして、駐車が終わったあとの時間はどれほど早く流れることか。
マクドナルドは、この人間の心理傾向を利用している。店舗の内装には人の心理を興奮させる色彩、つまり赤、黄色、緑等を多用し、BGMもテンポの速いものにし、来客を軽い興奮状態にする。こうすることで、マクドナルドはより短い時間で来客を店から追い出すことに成功している。


それから、
スクリーンに、彼女たちの顔面のアップが映るのだが、それをチェックしてみると、「かしゆか」に関してはほとんど瞬きをしていない。観客のほとんどは、眩しいライトの明滅もあり、かしゆかとのにらめっこに負けてしまうだろう。そして、彼女に対して負け犬のような従順さを感じてしまわないだろうか?
また、彼女たちの振り付けはどうだろうか?『滝沢式催眠術』のゼスチャーと異なるものだろうか?威嚇するようなポーズが時々挟まれたりはしないだろうか?

そして、真に注目すべきは、この歌の歌詞である。従来の詞の観点から言うと、これはジャンクボックスみたいなもの。これはじつに催眠術的。
単純なリズムに対応させるために、断片的な言葉が並んでいるだけらしいのだが、それらはことごとく、英語だったり、言葉が聞き取れなくなるまで機械的に加工されたものだったり、脈絡のない言葉だったりする。ただ一言『誰だっていつかは死んでしまうでしょう』という聴く者をどきりとさせるセンテンスだけが明瞭に聞き取れる。
意味不明の妄言で、観客の聴覚に錯覚を呼び起こし、そこで朦朧とした意識の状態を作り上げ、半分トランスしてしまった観客の脳裏に「誰だっていつかは死んでしまうでしょう」というアイドルが言うはずもないセンテンスを突き刺す。
これは、まるで催眠術師が、被催眠術者に言葉で強い暗示を書ける様とそっくりである。
尤も、相当にさいみんじゅつに掛かり慣れた人でない限り、この一曲で催眠術にかかることは出来ないだろう。しかしそれでも、ヒプノボードをしばらく眺めている時に近い暗示を受けやすい状態に人の心理は導かれてはいないだろうか?



これら催眠テクニックを仔細にチェックしていくと、パフュームのステージは催眠パーティーみたいなものなのだが、その主催者の三人の女の子はそんなパーティーを開いている自覚がおそらく無い。それどころか、彼女たち自身が自ら催眠状態にかかった上で、ステージの上に立っているように私は見える。そして、曲が進むに従って彼女たちの催眠状態は進化してゆく。
聞いているだけ、見ているだけの私たちでさえ、催眠にかかっていくようになるのだから、ここで踊り続ける彼女たちは何倍も深いトランスに入っているのではないだろうか?
東京ドームのDVDのラストの『ポリリズム』で、三人が三者三様のあり方で目を潤ませている。

彼女たちはみんな観客と納得のいくコミュニケーションが取れたことに感動しているのだろうけれども、その感動には、トランス状態の脳内麻薬が大量に分泌している故の多幸感が見て取れる(と私には見える)。優れたシャーマンというものは、この、脳内麻薬のコントロールの達人であり、本人たちの意志でこれを過剰分泌することも、冷静な判断力を維持する為に抑えることも可能である。

私は、パフュームのファンになった最初の一時間以内に、彼女たちが巫女に似ていると感じてしまったのだが、それには確かな理由があったということだ。



そして、卑弥呼もおそらく、この脳内麻薬のコントロールの達人だった。日本史上に記録された、この類の能力に秀でた女性は、他には阿国歌舞伎の阿国くらいだろうか?
現在までの累積人口を900億と仮定すると、今現在生きている人たちの13倍程度の人しか歴史上には存在しないことになる。パフュームなみの強烈なトランス能力を持つ巫女なり芸能者が日本史上いくらいるのだろう?卑弥呼や阿国と比べることはそんなに大げさな言い方だろうか?



もともと、このタイプのトランスミュージックは、ドラッグ付きで催眠パーティーを行うためのものであり、照明、舞台、音楽は20年以上かけてその催眠効果を高めるために努力を積み上げてきた。その成果がこのような形で現れているといっていい。けっして個人の悪意によって作られたものではなく、時間をかけて多くの人の手を経て出来上がった催眠装置なのだ。
そして、これが欧米で行われる場合は、神経を興奮させるための薬物等が併用される。日本では、それら薬物はそこまで一般的ではないのだから、パフュームの場合には独自の工夫がいくつもなされており、ドラッグなしで欧米の同系列の音楽に接するよりも効果が強い場合があるのだろう。




意識水準が低下して、半分眠った状態では、無論、学術書を読むなどという複雑なことは出来ない。出来ることは、単純な情動に従うことと、自己の欲求の方向性に従い、催眠術師の暗示、誘導をつぎつぎと自発的なものと誤解する。

性欲、どんな生き物にでもある欲求。そして人間は、この欲求を隠すことを社会的に強いられている故に、無意識的に性欲を表面化させることを願っている。

もちろんパフュームの芸能は、このように下世話なものではないのだが、それでも太ももの過剰な露出の意味とは、被催眠術下では、そのようなセクシャルな刺激が強い効果を持つことと関係がある。