歌詞 『マカロニ』 パフューム

この歌詞で、心に残る一行は、これひとつ。

『このくらいの感じで、多分ちょうどいいよね』

それで十分です。


男の子のためにマカロニを茹でながら、まだ少し硬いくらいの時に、茹で上げて、ソースに絡めるのを待っている。
アルデンテの、まだ芯の残る硬いマカロニと二人の関係を重ね合わせながら、
「彼のことを全て分かっているわけじゃないけれど、でも今が一番二人はいい関係なんだろうな」と自分をなっとくさせる女の子の話。





自分で料理つくらないやつには、この詞分からないんじゃないすか?

マカロニ?何それ?って感じでしょ?
パスタとスパゲッティの区別もついていないやからには、無理なんじゃね?

中田ヤスタカの詞には、食い物の話多いです。私がこのブログで再三再四食い物について文章でどう表現するべきかについて書いていますけれども、
食い物って、その存在自体が「共感覚」的であり、料理についての記述って、ほとんどが五感の敷居を逸脱した比喩で成り立っています。
ワインのテイスティングだと、

  • 豊満で魅惑的な香りで、明朗快活、外交的な性格

とか

  • 味はやさしく、タンニンと酸にまるみがある

とか
冷静に考えると、直接味覚について表現していません。漠然としたイメージの比喩だったり、味覚を視覚情報のように表現したり。

まあ、味覚を表す言葉って、甘いと塩辛いと苦い酸っぱいくらいしか本来ないし、実のところ舌の感じる要素もそれだけしかありません。

それゆえ、味覚って、本来の味覚のレンジから常に逸脱するような性質を持っていますから、
食い物って、詞や詩の中で比喩として使いやすいんですよ。

中田ヤスタカ、くいしんぼですから、このへんのことよく分かっているんでしょう。


マカロニって、
茹でてから、トマトソースと和えるとか、クリームソースに絡めるとかするはずなんですが、
こぎれいな更に盛り付けると、おしゃれな一品料理が出来上がるんじゃないかって気がするじゃないですか、

そういうメニューを自分の家で作るって場合は、大抵下心あるわけでして、自分の部屋にガールフレンドなり、ボーイフレンドなりを連れ込むための口実に、「美味しいもの作るからさ」とか「最近料理に目覚めちゃって」とかいうわけです。
そんで、料理に目覚めたはいいけど、味噌汁、漬物、イワシの丸干しに玄米飯とかだと、カッコがつかないから(それだと、幕内秀夫の『粗食のすすめ』ですわ)、
カタカナ料理を必死こいて本見ながら作ったりするんですけど、

私も、イカスミスパゲッティー作って、玉砕したことあります。


マカロニ、という題名だけで、そういう虚しい努力とその下心、それに、アルデンテのまだ硬くて本当に分かり合えていない微妙な距離感みたいなものが私には伝わります。


「これくらいの感じで、多分ちょうどいいよね」

マカロニのゆで加減を気にしている女の子の様子だけでなく、
「二人が完全に分かり合えていない時の方が、恋愛としてはいいのかもしれない」なんて思っている女の子の、ささやかな絶望みたいなものを私は感じます。
だって、この「これくらいの感じで、多分ちょうどいいよね」って言いかた、言ってる本人に確信ないってことでしょ?
「これくらい分かり合えないところ残しておく方が、恋愛としては楽しいのかな?」なんてひとり思ってみるけど、その考えに対して確信持てきれない女の子。



〈LIVE〉 Perfume - マカロニ (Macaroni)



『大切なのはマカロニ、ぐつぐつ煮えるスープ』
この行と
『最後の時がいつか来るならば、それまでずっと君を守りたい』
私には、おなじに思えます。


人間関係を「煮詰める」という料理用語と重なる言い方で表したとき、それがマカロニを茹でる姿と重なってしまう。
ふとある時、とことん煮詰めてみたい、マカロニどうしが溶けてドロドロになってくっついてしまうまで、二人の人間関係を最後まで煮詰めてみたい。
そんな風な感情の高ぶりを示しているのでしょう。

詞の面白いところは、詩と違って、主語デタラメでいいんですよ。というか、敢えて、主語を私、あなた、彼、彼女、を混線させて、多人数の間に成り立つ共感を表現するのが普通です。

映画も、これに近いことしょっちゅうやっています。

この辺は、小説と大きく異なるところです。

ある意味、主語を混線させることで共感を呼ぶというのは、馴れ馴れしいと言えるかもしれないんですが、
その裏づけとなるメロディとリズムがありますんで、詞の場合は、そういう掟破り的なことがあんまり気になりません。

そして、
マカロニを煮ているのは女の子だとして、
「君を守りたい」って言っているのは、女の子なんだろうか?それとも男の子なんだろうか?

この詞の中では多くが語られませんから、なんとも言えません。

別にどちらでもいいような気もします。

マカロニをスープに絡める際に火を通しすぎている女の子が、自分の心のたかぶりをそのままマカロニを煮詰める時間の長さに転嫁させてしまったと考えてもいいでしょうし、

マカロニを煮詰めすぎている女の子の姿から、女の子の内面を読み取った男の子が、後ろからそっと優しく抱きかかえてくれた、
そんなふうに考えても構わないのかもしれません。


別に詞の解釈なんてなんでもいいんですよ。重要なのは、それを聞いている人の妄想スイッチをどれだけ強く押してやれるか、だけなんです。




マカロニ、面白い、歌詞です、
そして、実に失語症的で、一つか二つだけのアイデアで成り立っている歌詞です。


でも

〈LIVE〉 Perfume - マカロニ (Macaroni)
パフュームが歌うと、マカロニを茹でる具体的な姿がほとんど思い浮かべられません。
(こやつら、みんな料理下手なんでしょ?)
そして、それゆえに、本当は、中田ヤスタカが料理の比喩をとっぱらって直に言いたかった部分だけが、そのまま伝わっているように感じられます。

のっちがマカロニを茹でていて、あーちゃんとかしゆかが、その様子を守護天使のように見守っている。
アルデンテの他人行儀な硬さから、もう一歩踏み込もうと決意した女の子を、後押しするように、祝福するように、私にはそんな風に見えました。


本来、歌詞ってこういうもんでいいはずなんですよね。ていうか、こうあるべきです。
歌う人の為の解釈の余地をちゃんと残し、聴く人のための誤解の余地をちゃんと残しておくべきなのでしょう。
 

『マカロニ』は素晴らしいですけれども、パフュームは、この地点を超えて、どんどんもっと素晴らしくなっていきます。



2013年12月14日

最近、あんまりこのブログを書いていないので、今後なかなか多くの人の目に触れることを書くこともないのでしょうけれど、

もしかすると、この回の記述が、このブログの一番読まれた記事になるのかもしれません。
『マカロニ』の歌詞について


〈LIVE〉 Perfume - マカロニ (Macaroni)



まあ、そして、今なら、『マカロニ』の2009(平成21)年10月15日 ⊿TOUR 横浜アリーナの映像について、もうちょっと客観的なことを書いてしまうのですが、



自分と相手の距離感をうまくつかめない恋人たちが、その微妙な距離感を「これでいい」と自分たちに納得させていたのが、
もう一歩踏み出した関係に成ろうとしたときに、天使がほほ笑んで後押ししてくれた。

わたしは、そういうストーリーをこの映像と詞から感じてしまったのですが、


三人の女の子たちがどう思っていたのか、曲書いた人がどう思っていたのか、ステージ演出考えた人がどう思っていたのかは、
私にはわかりません。

ただ、しかし、このライブ映像を編集した人、関さんは、わたしの解釈と大体同じだろうと思います。


のっちに着目すると、彼女、3分25秒まで笑いません。ずっと不安げで耐えてるような表情です。
そんで、曲の終盤でキラキラした目で初めて笑うんですが、
だから、1分10秒の「これぐらい」と3分40秒の「これぐらい」って、
ぐらいの程度が違うんじゃないか?と思ってしまうんですね。

最初のこれぐらいは75センチなんだけど、最後のこれぐらいって24センチまで縮まっているんじゃないか、と。


基本、かしゆかは、ずっとニコニコしてるから、物語を俯瞰で見ているように感じられます。

微妙なのは、あ〜ちゃんの存在なんですが、
「この曲においては、自分はわき役だ」とかしゆかは知っていたけれども、あ〜ちゃんは知らなかったのかもしれません。そんで、ライブビデオ見てはじめて、「え〜、わたし、この曲では脇役だったの?」みたいなことがあったのかもしれない。

自分が演出家の立場だとしたら、そういう仕込みやっちゃうかもしれません。
のっちにだけ、こっそりと曲の演出方針教えておいて、あ〜ちゃんには独自の解釈で踊らせるとか。

ほら、よく聞くでしょ、映画監督の人でなしのエピソードって


ほんで、
もしこの『マカロニ』から あ〜ちゃん抜かして、かしゆかとのっちだけにすると、ものすごくわざとらしくて、興ざめするような気がするんですよね。
『マカロニ』に関しては、のっちとかしゆかはポジション決まっているんだけれど、あ〜ちゃんはフリーポジションで、曲の雰囲気を作っている、そういうことなのかもしれません。



わたしにとって、この曲の意味は、
3分25秒で初めてのっちは笑うということで、ほとんど決定されてしまいます。
曲を書いた人が何を思ったか、振りをつけた人が何考えてたか、について解釈する気もないし、その資格もないんですね。
わたしは、ただ、3分25秒目まで笑うのっちの姿を映さないライブビデオの編集者の思いを解釈しているだけなのでしょう。