ほんの少しの僕の気持ちも巡り巡るよ

ある時ふと気がついた。こんなブログでも、時々には半日かけてほとんど全文読んでくれるような人もいるわけでして、
自分の書いた言葉が、コピーされ、自分のあずかり知らぬところで繰り返され、誰かの頭の中で咀嚼され、
それから、自分の文脈とは別の文脈の中で、再利用されることもありうる。

そして、自分が死んだあとも、自分の言葉、もしくは換骨奪胎された自分の言葉の方が長く残るのかもしれない。

コピーされる側ではなく、コピーする側の立場で言うと、
今現在、ネットを使うと、学校のレポートの類なんて、ものすごく簡単にできてしまう。
興味深い記事をいくつか選び、わからない箇所をウィキで調べ、文章のつなぎを手直しするだけで、レポートができてしまう。

このブログに、パフュームと人間の感情表現について書こうとしたとき、感情についてのいくつかの面白い文章を適当に見繕って切り貼りするだけでそれでおしまい。

これがダメなことなのかというと、厄介なことにどうもそうでないらしい。
むしろ、なんでも手書きで、必死こいて他人の本を書き写していた時代の方が、
所詮他人の意見を引っこ抜いて切り貼りしていただけなのに、肉体的労力から他人の意見を独自に血肉化したと錯覚していた時代の方がタチが悪いのではないだろうか?

今ならはっきりわかるのですが、所詮自分の知識や考えといったものは、他人の知識や考えの切り貼りコピベに過ぎず、
そして、そのことは何も自分に限ったことではなく、基本的に人間とはそういう生き物だった。
私たちは、コミュニケーション能力に特化したヒトという生き物であり、鉄砲持っていなかったら野犬と喧嘩したら多分死ぬ程度の生き物。

コミュニケーションによって、自分たちよりも何倍もでかいマンモスを狩り、マンモスの何百倍もでかいピラミッドを築き、知識を累積し、進化させ、歴史上多くの人たちがこのプロセスに加わったことで、人類のは科学を成り立たせてきたのですが、


ネット時代になると、本来、ほとんど価値がないはずだったこと、
例えば、どこそこの誰々がなん月なん日に何何をした、みたいなことまで累積されていきます。
誰それがパフュームよりもももクロの方が好きだとか、そういうことは本来どうでもよかったはずなのですけれども、

ネットで瞬時にアクセスできるようになると、何かの間違いで、ほかの人にコピベされたり、ほかの人の人生の文脈の中で別の意味で使われたりすることもあるのでしょう。


そう考えると、ネットというのは、知識のみならず個人の内面生活も含めたマインドのリサイクル市場のようなものかもしれません。

二束三文とか、ただでもいらないようなもんもたくさんありますけれども、最初に購入した人と全く別の目的で二番目の所収者が買い求めたり、もしくは、パーツだけを取るために分解したり、いろいろあるわけですよ。


私以前、秋葉原の路上でのオタ芸の動画をクィーンのライブエイドの動画すぐ隣で紹介し、パフュームの芸風と通じるものがあると書きましたが、

ネット上の情報が、本来思いもよらなかったやり方で再利用されるってのは、まさにリサイクルだよな、と。


「とても大事な キミの想いは 無駄にならない 世界は廻る」
中田ヤスタカ、何考えてこんな詞書いたのか全くわかりませんけれど、
ネットって、こういう世界ですよね。
ほんと、何考えてるのかわかんないんですけど、『ポリリズム』深い歌詞ですわ。