悟る

飯食っている時にテレビ見るの嫌いなんですよ。
テレビ自体嫌いなんですけれど、
飯くいながら映像作品見るってのが嫌いなんです。

飯には、ひとつのストーリーがあるはずなんですわ。

食う前に匂いや外見から、味の予測をするでしょ?
そして、実際に口に入れた時に、その予測が正しかったか、もしくは心地よい方向に裏切られたか、のドラマが発生し、
咀嚼して飲み込んだあとの胃への収まり具合によって、食い物に対する最終的な判断に至るんですが、

この一連の流れが、テレビ番組を見ながらだと、テレビの中のストーリーによってかき消されてしまう。

また、フルコースともなれば、前菜から、一の皿、二の皿、メインディッシュ、デザートへ至る盛り上がりの起伏があるわけでして、大河ドラマのストーリーを目で追いながら食っていると、
食事が本来持っている、リズム、ストーリー、抑揚がほぼ分からなくなってしまう。


それに、食事って五感総動員する行為ですから、咀嚼音がテレビのキンキン声にかき消されると、それだけで気分はげんなり。

ラーメン屋ぐらいですわ、テレビ見ながら食ってもいいのは。
私の場合、ラーメン屋で食うことあんまりないですけど。


私がメシ作ってご馳走するときに、テレビ見ながら食べるような奴は、窓から靴を投げ捨てられて、玄関から蹴り出さることになります。



腹立つんですよね、自分が苦心して考えた一連の流れを無視されるようなことって。



だから、この気持ちもよくわかる。
『ラバーソウル』と『リボルバー』の曲をアメリカのレコード会社が勝手にツギハギして出してしまったLPに、怒ったビートルズがよこしたアルバムデザイン。

自分の赤ちゃんみたいに大切な楽曲を、勝手に順番組み替えて、少しでも発売できるLPの数を増やそうとしたレコード会社への辛辣な当てこすり。

A面
ドライヴ・マイ・カー
アイム・オンリー・スリーピング
ひとりぼっちのあいつ
ドクター・ロバート
イエスタデイ
アクト・ナチュラリー

B面
アンド・ユア・バード・キャン・シング
恋をするなら
恋を抱きしめよう
消えた恋
デイ・トリッパー

『ドライブマイカー』の次に『ノルウェーの森』がこないんだ、へぇー。
ていうか、『ドクターロバート』の次に『イエスタデー』かよ。

怒る気持ちはよくわかります。




初期のパフュームが、中田ヤスタカから棒読みで歌わせられていたことに対してものすごく不満で、レコーディングの都度三人のうち誰かが泣き出していた、ってエピソードが私は気に入っているんですが、

歌だって、料理とおんなじで、最初はこんな感じで始まって、ここら辺で抑揚つけて、ここで一回ひねって、クライマックスはこんな感じでっていうイメージがあるはずなんですけれども、

そういうのことごとく無視される、却下されると、腹立つわな、普通は。
十代半ばの女の子達だったから、泣いたんだと思うけど、普通は怒るぞ、殴りかかってくるぞ。

歌う女の子たちのイメージを無視して、彼女たちの声を一通り録音すると、それを粉々にパーツ分解してから、寄木細工組み立てるみたいにというか、フランケンシュタインみたいなツギハギの化け物作るみたいにボーカルを再構築していくのが中田さんのスタイルなんでしょうけれども、

女の子三人は、最初の頃は、こういう中田さんのやり方が嫌だったらしい。
だって、自分の個性の表現になっていないでしょ。自分のイメージを聴衆に伝えることができないんですから、もどかしくて仕方ないし、また自分の心を踏みにじられたとさえ感じたでしょうね。

そういう女の子の冷たい視線を無視して、この路線を貫いた中田ヤスタカって、ドSな精神の持ち主だな、というか、楽しそうな人生送っているな、と。


そうやって自分たちの声を細分化したパーツとして利用されることなんですけれども、
こういう音楽が結構受けていることを目の当たりにしてパフュームの三人の考え方が変わっていったらしいんですが、
自我を主張する道具として音楽を捉えるのではなく、音楽の中で機能としてのみ自分が存在する、そういうあり方に慣れていくことで、彼女たちはひとつの悟りに至ったのではないだろうか?と私は考えます。

以前引用した渋谷陽一氏の文章ですけれども、
「これほど自我が相対化され、ナルシズムが無化されたアイドルはかつて存在した事がない。桑田佳祐が30年トップを走り続けて到達した境地に、何故19才の女の子が立てたのか分からない」

基本的に彼女たちの歌って、自我の主張じゃなくて、自分たちを音楽の一部として認識すること、自分たちを歯車として認識することだったからじゃないでしょうか。

サザンのリーダーがどのような境地にたっしられたのかは知りませんけれども、桑田さんも身内の不幸があったり、がんの闘病生活があったりで、大変だったんでしょう。自分の思いを客に伝えることよりも、観客が望むんだったらどの曲でも歌う。客ととつながりの中にしか自分はいない、自分は主役かもしれないけど、結局は歯車の一枚にすぎん、そんな境地なんでしょうか?


面白いのは、じゃあ、全てが中田ヤスタカの思いのままに進んできたのかというと、どうもそうでもないらしい。
女の子たちの声を切り刻んで加工してツギハギしたんですけれども、それをライブで再現するために振り付けを加えたり、PVを作成して映像化したりすると、

バラバラでつぎはぎだらけで自己主張を殺されたはずだった女の子達が、変幻自在な天使みたいなイメージとして生まれ変わるのですね。
もともとまともに歌っている映像を作成してもおそらく音楽にうまく対応できないんです。曲にあわせて口パクらせても、あの加工編集された歌って生身の人間の発声法踏みにじったあり方しているんですから、『ドリームファイター』のPVみたいなものしかできない。

だから、PVやステージでの女の子三人の変幻自在な天使みたいなイメージって、必然的な生成物だったんですよ。
一旦自我を捨てたあとに得られる奇跡的な個性とでも申しませうか。

ここまでは、中田ヤスタカも想定できなかったのではないでしょうか?
曲作ったあとは、パフュームのライブにもいかず、次の映像化の行程は別の人に丸投げらしいです。
視覚化、映像化のプロセスを経てパフュームという商品は完成するのですが、完成した商品においては、中田ヤスタカの楽曲さえ、ひとつの機能でしかないわけです。

女の子たちの歌を分解して再構成していた中田氏も、自分の楽曲に視覚イメージを重ねられることで、自分の楽曲が再構成されていたんですけど、その視覚化の際に、女の子の奔放な個性が存分に威力をふるっている訳です。

女の子たちは一方的に泣いてただけじゃなかったんですよ。

彼は、段階的にこのことに気がついていって、どこかではっきりと自覚したんだと私は思っています。そうじゃないと『ワンルームディスコ』みたいな曲はできてこないだろうな、と。


CDでパフューム聞くこと私の場合ほとんどないです。ほとんど映像付きで見てまして、
たまにCDで聞くと、その印象の違いに驚きます。

なんていうか、音に関しては100%中田さんが管理しているもんですから、女の子の声がよくしつけられた飼い猫みたいに従順なんですよ。
機械的に加工された彼女たちの声に呼応するような旋律が機械で演奏されていて、それが私には、中田ヤスタカの鼻歌みたいに聞こえて微笑ましい。
love the world』に関して言うと、おならみたいな音がなってるじゃないですか。あれ、中田氏の鼻歌に聞こえてきません?
おっさんになりかけている男が、鼻歌歌いながらバービー人形で遊んでる、
私にとってのパフュームの音だけのイメージはそういうもの。

それと比べると映像でのパフュームは、全然そんな従順な飼い猫みたいな感じがしません。ひっかきもすりゃ噛み付きもするなかなかワイルドな生命感持った連中に見えるし、そういう風に聞こえるんですよ。本来CDもPVも音は大差ないはずなんですけどね