AKBについてもうちょっと考えてみる

まともな批判をしようとするなら、まともに理解しなくてはいけない。
まともに理解しようとするなら、一低水準以上の愛情を対象に感じなくてはいけない。

これって、私の考えた言葉なんですが、実行は難しいでしょ。




不快だから直視できないってのが本心なんですけど、
それだと、
AKB擁護する人の言い分に、してやられてしまうわけでして、

一応ちゃんと理解しておこうかなと思う次第です。


1980年代のネオアカとかポストモダンの時のインテリめいた人たちの口の利き方思い出させるようなAKBの擁護論って結構あります。

相対的視点、
AKBがゴールデンタイムに流れるのが害悪なら、ビートたけしの政治漫談のほうがはるかに社会的に有害だろう、的なもの。

こういう言われ方すると、なかなか反論できないんですよね。
(ていうか、自称インテリならノブレス・オブリージュ的に、至るところで有害なものに怒りまくれよ、ビートたけしの政治漫談にもちゃんと怒ってくれよ。ちゃんと名声に見合う社会的責任果たしてくれよ、ってなとこですけど、80年代にモノの言い方覚えた人たちって、ぜったいそういうことやりたがらないですし)

まあ、いいんですが、

この前の総選挙みてて、少々意外だったことは、
一桁に入ってくるの子達って、意外にも、一定以上の美人さんばかりなんですね。
今まで、私、知りませんでした。前田敦子しか知らなかったんですよ、かなり最近まで。

『明日の私のつくりかた』って映画、主演は成海璃子前田敦子は助演で、いじめられっ子で友達がいないという役だったんですが、

いつでもどこから見ても魅力的な成海璃子に比べると、前田敦子の地味なこと地味なこと。
まさか、この数年後に、成海璃子よりも前田敦子の方が人気ものになるなんて、普通の人には絶対わからないことですが、

それでも、時々、前田敦子の演技と存在感にきらめきみたいなものが見えるんですわね。
8割がたの時間はブサくて地味な女の子が、ゴール前でそれまで死んだふりしていたFWが素晴らしいシュートを放つみたいに、才気を示すんですわ。

こういう才気や魅力のきらめきがまだ人目につかないうちに、ファンは、それを発見し、それに金をつぎ込み、支援し、…
みたいんもんだとAKBのことを思っていたんですが、

そういう見方というのはAKBに対して好意的すぎたんじゃないか。
前田敦子の変な存在感が、AKBの臭みをいい具合に消していて、それが彼女がやめた途端に、嫌ったらしくてしょうがないものに見えるようになったのかもしれない。

上位入賞者、みんなそれなりに美人さんなんですも。
総選挙見るまで、私、AKBって、みんな前田敦子レベルのルックスだと思っていたんですわ。


そうなってしまうと、なんというか、
この方式で増殖して、数年以内に芸能界乗っ取ってやろう的なものにしか思えなくなったんですわね。





AKBを擁護する人たちの言い分を読んだりして変だなあと思うのは、誰も彼女たちの芸について述べようとしない。

彼らが述べるのは、

AKBの斬新なぼったくり商法のあり方 と AKBが感動を生み出すシステム について。


誰も音楽について述べようとはしませんし、誰もダンスについて述べようとはしませんし、誰も彼女たちの演技について語ろうともしません。


そんで、面白いのは、批判する人たちも、ぼったくり商法のあり方と「感動」の嘘臭さについてであり、誰も、その音楽やダンスや演技という芸の部分について述べたりはしません。
これは当たり前かもしれません、一目見ただけで「ウザい」と感じさせる要素をAKBは猛烈に持っているのですから、真剣に見よう聞こうという気をアンチになる人たちは持っているわけありませんから。

そんで、その「ビジネスモデル」についての話になるんですが、そうなるとどうなるのかというと、
批判する人たちは「アコギだ、非人道的だ」と言いますけど、
擁護する人たちは「ファンも納得して金払ってるんだし、優れたビジネスモデルじゃないか」と、
法律上問題ないんだし、経済潤わせているんだから、AKBはアリでしょう、で擁護派の勝ちとなります。

おいおいちょっと待ってくれよ、音楽とエンタメの話じゃなくて、ビジネスモデルに話題がすり替わっていないか?
優れたビジネスモデルが優れた音楽それ自体よりも優れているという方向に話が流れていないか?

まあ、優れた音楽って、定義しがたいですから、
金に換算できる話に持って行けば、白黒ははっきりつくわけでして、

「優れたビジネスモデルは、優れた音楽それ自体よりも優れている」ってなこと言って、
「あんたの言う優れた音楽って何よ?それがAKBよりも優れているって根拠は何よ?所詮個人の嗜好性に過ぎんでしょ」
と言われると、なかなか言い返せないもんです。

そういうのと比べりゃ、どれだけの金を生み出したかって基準は、誰でもわかりますから、そういう点ではAKB擁護派は強いですよね。


つまりAKBって音楽や芸能に愛着ない人には、かなり訴えかけるものらしい。
逆に、ポップミュージックに何がしかの愛着を持っている人にとっては、嫌で嫌で仕方がないものかもしれません。




そして、AKBが生み出す感動についてなのですが、
こっちのほうこそ、誰がなんに対して感動しようと、それはその人の心の文脈に関わることですからいいんですけれども、
しかし、よのなか、感動耐性の弱い人っているんじゃないか?そう私は疑っているわけでして、

努力する姿が美しいって言っても、その努力は何のためのものなのだろう?その努力の成果として現れたものは、ああいう歌と踊りと演技なんでしょうか?と思うわけです。


ホームラン記録作るための努力は、感動的と考えられているのが普通だとは思いますが、
ゴキブリ潰すための反射神経の鍛錬については、あまり感動する人はいないと思います。


「なんでもいいから、努力してみろ。お前らはAKBの女の子以上に努力できるのか?」
その言い草って、外食産業の経営者に似つかわしいようなブラックなコクがあります。


芸能の本来の中身をすっとばして、
努力感動ビジネスモデルだけで語られているのがAKBだとしたら、わたしは、擁護する人共々、嫌なんすよね。

もっと、芸についての話してくださいよ、表現について真摯になりましょうよ、と私は思う次第。


でもしかし、
努力感動ビジネスモデル以外で、AKBを語れる人、例えば、メンバーの誰それは俺の理想の女性、みたいなファンの人に対しては、わたくしなんの嫌悪感も感じません。
若い女の子48人揃えてハーレム、うしし、みたいな妄想する人に対しても、
そりゃ男の夢のあり方の一つだわな、としか思いません。