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#3 ゆめ  本棚 ビール瓶 校庭

のび太の部屋の本棚って、本が詰まっているんですが、背表紙の文字が書き込まれることはほとんどなくて、
一応、本に見えるものが詰まっているという情報が与えられているに過ぎません。





それらの「本」は読まれることもなく、手に取られることもありません。
それゆえ、どんなことが書かれてあるどんな本か、ということはどうでもいいことで、ただ単に本に見えればそれでいいはずです。


つまり、このマンガの中で、本棚に本は存在するのか?というと、本らしきものは存在するのだけれど、それは、家具屋の本棚の中にあるような張り子の百科事典のようなものに過ぎないと言えるかもしれません。


現実の本棚、例えば公立図書館の地下書庫なんかの何年も放置されているような書架でさえ、そこに詰まっている本は、実際の本です。
私が生涯を通してその書架の本を一冊もてに取らなかったとしても、更には図書館の地下書庫の存在について無知なままであったとしても、
本は存在するんです。


でも、マンガの中では、物質はこのような現実のあり方的には存在しないものでして、
作者によって、
物語の進行上、どうでもいいと考えられた場合、もしくは読者に注意を惹きつけさせる必要がないと考えられた場合は、
のび太の本棚のように、背表紙の存在からいちおう「本」があることを示す記号みたいな抽象化されたものになってしまいます。

もしくは、全く書かれないこともあります。
藤子Fは、畳のへりをほとんど描くことをしません。廊下の床板はしっかりと描かれるのですが、畳の部屋だか絨毯の部屋だかについてはどうでもいいという感じです。



また、あって当たり前と考えられるものに対しては、たいてい省略されます。
部屋の天井って、マンガにはなかなか描かれることがない。
それは、部屋の床や壁を描写したら、天井って絶対あるもんだと私たちは思い込んでいますから。

それと比べると、食事シーンで箸やスプーン、食器が省略されることはまずないですね。ほんとに律儀に漫画家は、それらのものを書き込んでいます。
食事の光景というのは、どうしたところで人の気になって仕方のないものなのでしょう。



新しめのマンガを見ていて思うことなんですが、たいていのマンガはとにかく細部が描き込まれていて、ドラえもんのようなスカスカな絵のマンガもなかなか少なくなりました。

風景の写真資料を大量に集め、時にはロケ地を選定したりして、それらをアシスタントを大量に使いこなして描き込んでいくのでしょうけれども、

むかしのマンガは、何が描かれているのかがポイントだったのに対して、今のマンガは何が描かれていないのかのほうがポイントのような気がします。



『ひょうげもの』
このマンガの場合、室内装飾、衣装、調度が興味の対象なので、細部を執拗に描きます。それゆえ、人物を強調させる時には、スポットライトを当てるかのように、周囲を白く塗りつぶしています。

こうなると、映画の撮影と近しいものと言えるでしょう。
『ひょうげもの』の世界では、まず、細部が歴史的事実として確固に存在します。


描き込まれたマンガは、作業的には大変なのでしょうけれども、
何を描いて何を描かないかの取捨選択を放棄したようなしょーもないマンガが多いのも事実でして、
どっかから写真を持ってきて、それ写しただけの背景や細部を見せられても、ああ、またか的な感慨しかわかなくなりました。


そういう昨今のマンガのありかたの中で、大友克洋的な表現を見せられると、「おおっ」と驚かされます。

大友克洋、どんだけ酒瓶描くの好きなんだよ、と思わせられるコマ。
工業製品の規格化された酒瓶なんてのは、通常は人の注目を集めたりしないものです。
スーパーに行っても魚売り場や野菜売り場と比べて、飲料コーナーってあんまり面白くないでしょう。

それをこれだけ執拗に書き込まれてると、異様なバランス感覚が生じます。

もし、あなたがこの現場に居合わせたとして、これからどの酒を飲もうかと棚の酒瓶を物色していたとしましょう。酒瓶の壁をなんどもなんども視線を行き交わせることになると思うのですが、
その視線の有様を、ペンの先によって表現しているのがこのコマなのではないでしょうか。


マンガってのは、読者の注意を誘導したい箇所は描き込むものらしいです。
そして、私たちが主観的に物事を眺めている時というのは、自分の都合で、目の前の事物を無視したり強調したりしているようでして、
この無視と強調の仕方がその人の意識のあり方であり、その人の個性であると考えると、

マンガというのは、知らず知らずの内に、他人に物の見方を受け入れさせる表現方法なのでしょう。



こちらの先生の場合、
描き込みもすごいのですが、それと同様に省略もすごいです。

学校の描き方にしても、端っこに向かうにつれ興味が薄れていくかのように線が破綻していきます。

この絵の中に何がないのだろう、と考えるに、
色彩がないのではないか?
スクリーントーンのようなもので地面と空の色分けを行なったりはしませんし。

それに、雲の描き方から見ても、空について真面目に描くつもりがないことがわかります。



ドラえもんの本棚の話に戻りますが、
夢とマンガは似ていると私は思っているのですが、
夢の中で、その夢の進行上どうでもいい本というのは、手に取られることもなく背表紙を読まれることもありません。
「そこに本がある」という情報が伝われば、その本はそれ以上存在する必要がない。

そして、私たちは、夢を見ている中では、そのようなことを検証することができません。
マンガの場合は、しつこく何度も繰り返し読むことができますし、所詮他人の主観的光景を魅せられているわけですから、
「この酒瓶へんだな」とか「この空へんだな」ということが、はっきりとわかります。

しかし、自分が寝ている時に思い描く夢に関しては、それが一過性のものであり、また、自分にとってなじみのよい自分の無意識的妄想なのですから、
「この酒瓶へんだな」とか「この空の色へんだな」ということに気づかないまま朝の目覚めがやってくるのではないでしょうか。


私たちが寝ている時に見る夢は、実は松本大洋のマンガのようにスカスカなものであり、いたるところに空白や、雑な省略に満ちている。もしくは大友克洋の漫画のように局部的に強調されたアンバランスなものである可能性が高い、私はそう考えています。



大友克洋松本大洋のマンガを見て、何か懐かしい、どこか見覚えがある世界だと感じたことから、わたしは夢の世界のあり方について考えることになりました。
そして、これらのマンガを読むことがなかったら、私は死ぬまでこんなことを考える切っ掛けもなかっただろう気がします。