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『コンピューターシティー』

詞とメロディと振り付けは、独立しているものではなく、またどれかがどれかに隷属しているものでもなく、
互いに関わり合い、ハーモニーを形成している、ということについて、

このブログの中で延々と私は述べているのですが、

音と言葉と動きの対応関係について述べた回がございまして、

音  メロディーが限定された音域内を循環している中で、キーンと高音にとび出す
詞  狭い檻に閉じ込められていた状態から、突き抜ける

それらは、視覚的には、


このようなイメージと親和性が高い。


もしくは、パフュームの振り付けが、ある種の言語、つまり手話とかサインランゲージの類だと考えてみると、
パフュームのパフォーマンスについての考えが深まる。


『コンピューターシティ』と『ドリームファイター』って似てるんですよ。


以下
7月7日に書いたこと


「このままでいれたら、て、思う瞬間まで」

テルテル坊主的な動き。



「もっと、もっと、もっと」
かしゆかの代名詞的な、巻き込むような螺旋状のゼスチャー。
この振り付け、たぶん、『シークレットシークレット』から始まってる、と思う。



「はるか、先まで」  パフューム的にbreak on through を表現すると、こういう振り付け。





このテルテル坊主的な動きと、突き抜けるように指さす動きは『コンピューターシティー』の中に既に出てきています。


「もうすぐ、何かが変わるの」
3分から3分30秒のところのテルテル坊主的な動き。

抽象的に図解すると、こういうもの。

突き抜けたいんだけど、もじもじして、突き抜けられない。
殻を破りたいんだけど、ためらってしまう。
自発的にアクションを起こせなくて、ただ待ってる。



そういう迷いを断ち切って、スパーんと、こういうゼスチャーが入るかと思いきや、

「真実はあるのかな」3分41秒

真実を見つけたい、何かを指し示したい、はずの腕と指は、歯車に巻き込まれるように下に下がっていく。

機械社会、コンピューター社会の中で、何かを求めようとする欲求が 世の中のしくみの中でうやむやにされてしまう。


「ひとつだけ嘘じゃない、アイシテル」

この図形的な詞が成り立つのはこの箇所。
でも、
女の子のゼスチャーで表される情感は、ものすごく、自信なさげで、弱々しく、腕と指が方向を指し示すまでに、ものすごく時間がかかる。
3分53秒の箇所。

自信なさげで、弱々しく、ものすごく時間がかかるこのゼスチャーが、見ている側の心には、突き刺さる。

このライブパフォーマンスの異様で、素晴らしいところは、
絶望的な詞を歌っているはずなのに、観客もパフュームも明るいんですよ。

『brave new world』の作者 オルダスハクスリーに見せたかったな、この動画。

絶望と歓喜が背中合わせに踊っている訳でして、

生きているというのはこういうことだよな、息してるというのはこういうことだよな、と、




振付師が「複雑な構成の振り付けを実行できるだけで彼女たちの知性は示されているのですから、可愛らしさを表現するためにあえて馬鹿っぽい振り付けを加えてある」云々の発言されてますけれども、
「完璧な計算で…」
この箇所で、手のひらをひろげて、ひとつずつ指を折っていく仕草。

ま、そりゃ、小学一年生で平均以下の知力の子供だと、足し算引き算の時に指折り数えますわな。

確かに、馬鹿っぽい。