胡蝶の夢

わたくし以前、こんなこと書いてまして、

ストーリーとメロディーの対応について スワローテイルバタフライ

そして、振付と詞と音の関係
ドリームファイター
マカロニ


なんでこんなことを考えたかというと、庭を飛んでいるチョウチョを見たときに、『butterfly』について考えてみまして、


チョウチョって、羽ばたきの推進力が小さいですから、こまめに羽ばたかないといけないですし、羽ばたく度に飛ぶ軌道がぶれますんで、
そのとんでいる軌道を五線譜に書き取ると、こんな感じになると思います。

細かい間隔で上下行ったり来たりするような旋律がチョウチョを表すには適当なんだろうと思うんですが、

perfumeの場合だと、
「ひゃららららららら、ぴゃららららららら、ひゃららららららら、ぴゃららららららら」のループのとこが、
チョウチョが飛んでいる音表現だと思うんですよ。


チョウチョと比べると、鳥は羽ばたき一回の推進力が大きいですから、

その軌道を五線譜に写し取るとこうなるのでしょう。

「フリーーーーーー、アーザーバーーー」の様に長音を引っ張るような表現が妥当なのでしょう。



そこで思ったんですけど、『butterfly』ってループやリズムは細かくてチョウチョの飛ぶ姿の比喩になっているようなんですけど、
うたわれる旋律って、『free as a bird』と似た感じの長音引っ張るようなものなんですね。

伴奏と歌が矛盾しているように感じたのですが、

この歌の旋律はチョウチョの主観を表現しているのではないか、
伴奏がヒト目線からのチョウチョの飛翔軌道なのではないか、

つまり主観と客観の入り乱れた世界で、
それって、荘子胡蝶の夢の話と似ているな、と。

「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」(ウィキペディアに書かれてあった訳文)

まあ、中国人って、こんなこと言ってますから近代科学に対応できなかったんでしょうけれども、
だったらデカルトの「われ思うゆえにわれ有り」ってのも、実は何の根拠もなかったりします。
どっちもどっちなんですけどね。