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ユビサキから

「飯食う前に、蝋細工の標本からどんな味がするだろうかと脳内で妄想してみたりします?
ドリアンの写真見ながら、その匂い想像してみたりします?
かしゆかのユビサキ見ながら、それに頬っぺた撫でられたらどんな感じがするかなんてにやけてみたことありますか?」


苫米地英人氏の洗脳に関する著書にいろいろ書いてあったのですが、味覚嗅覚触覚といったマイナー感覚を脳内で上手に妄想できるようになると、
自分の過去をねつ造することなんて簡単なことだそうです。



「俺は18の時に貨物船でアメリカに単身渡航し、サンフランシスコで肉体労働を一日15時間しているうちにプロレスラーとしてデビューして、マイクロバスに乗って一座と一緒に北米全土を巡業した」

そういう過去を自分の中ででっち上げて、それを信じ込みたいとしますと、
こういうことを自己暗示みたいにブツブツ念じているだけでは不十分で、
それら体験をしたときの味覚嗅覚触覚といったマイナー感覚主体に妄想してみることが肝要とのこと。

それが完璧にできるようになると、その妄想は実際の記憶と違わないものになり、ほとんど記憶化してしまうそうです。
まるで、ジョージ・オーウエルの『1984』みたいな話です。


つまりリアリティとは、目に見えたものや耳に聞こえたものによって支えられているのではなく、指先や頬っぺたや靴連れや口内炎の感覚によって形作られているということらしいです。


これは文学でも、記述にリアリティを出すために匂いがどうしたとか手触りがどうしたみたいな描写が多々見られます。(尤もそういう描写に限って冗漫だと感じられ読み飛ばされやすいのですが)



なんか自分の存在にリアリティが感じられない。自分の体が自分のものに思えない。


そういう時は温泉にでも行って、しっかりと自分の皮膚の感覚を堪能してみることがいいのでしょう。



あなたの目の前の光景、それはあなたにとっての現実でしょう、きっと。
そしてその光景の中に、ほとんどあなたは映っていない。

あなたのユビサキやひじから腕の付け根までは見ることができるでしょう。目をぐりぐり動かせば鼻の頭や頬っぺたが少しは見ることができるかもしれません。

でもそれにしても、頭のつむじや耳の裏側を道具を使わずにみることは出来ないでしょう?
どんなに腰をひねったところで、自分の肩甲骨がどんなだかも見えないでしょう?

あなたの眼に見えるものがあなたの現実だとするなら、あなたはあなたの現実の中すみっこに体の一部分だけが引っ掛かってるにすぎないでしょう?そういう風に言えたりしませんか?

そして、そんな疑問が湧いたとき自分が果たして本当に存在しているのかいないのかを確かめるためにはどうしたらいいんでしょう?

こういう時は、昔から自分の頬っぺたをツネってみるという方法がとられています。



つまり、ユビサキで触れることのない光景とは、幻であっても不思議ないわけです。
そして確実にリアリティがあると感じられるものは、指先の感触だったり頬っぺたの痛みのほうだったりするらしいのですね。


居心地のいい温泉につかると、日ごろあまり注意していない皮膚感覚に意識が集中することになりますので、そのようなときには、自分の輪郭がどんなだかを丸ごと感じることができます、というか、感じよう努めれば丸ごと感じることができます。

この、自分の輪郭がわかるという感じと比べると、自分の網膜にちょこっと映る体の一部というのは目の前の机やいすや本やごちゃごちゃした物品その他との間に何の違いも感じられないよそよそしいものです。これ、一応自分が動かしたい方向に動いているけど、本当に自分の体なの?


視覚は情報源としては容量がけた違いに多くて重要であり、そこから人間は今何するか次何するかの根拠を見つけていくのでしょうけれども、

自分が生きているとか存在しているという実感は皮膚の感触やもしくは内臓の感触からしか得ることができないのではないでしょうか?

そして目の前の相手が生きているとか存在しているとかを確かめるために、その皮膚に触れたいと思ったり心臓の波打つ鼓動に触れてみたいと思うのでしょう、たぶん。


Perfumeの音楽は内臓の感触を思い起こさせますし、あの振り付けは触覚によるコミュニケーションを表現したものと思えて仕方のない今日この頃です。