『あまちゃん』 トンネル 地震
宮藤官九郎によると
「フィクションとはいえ震災を“無いこと”にするのは違うんじゃないか」
という思いと同時に
「直接的に描くのはやっぱり抵抗がある」
という思いもあったそうです。
そして彼が採った方法は、東日本大震災の回の前までに廃墟を描いてしまい、地震の回の描写は事実確認だけで終わらせてしまうというもの。
『あまちゃん』の珍獣役者連の小ネタ大会的なノリを、地震の回で使えるわけもなく、
実際、停車した北電を押す役者たちの演技は、『あまちゃん』のお茶らけたものとは違いマジメな作品での演技でした)
ふざけた台詞書いても、絶対許されないのですから、
地震のことを延々とドラマにすることは、突っ込みようがなくて、そのうえ世間の「一般良識?」から監視された極めてつまらないものになってしまうのでしょう。
地震から二年半たった今、そういうつまらない冥福の祈り方ではなく、
別の祈り方があるのではないだろうか、
そのように宮藤官九郎は思われたのかもしれません。
あまちゃんでは、地震の惨劇は、杉本哲太と橋本愛の二人にだけ降りかかります。死体は一つも出てきません。
二人の乗った電車が地震のためにトンネル内で停車し、しばらくしてから、
二人はトンネルの出口へと歩きだします。
そしてそこで二人が見た光景。
今の日本で本当に非倫理的と目される映像作品は、がれきの山、死体の山、廃墟を表現するために数億の金を投じた作品なのかもしれません。
「なんで、そんなところに金使うんだ、他に使うところあるんじゃないか?」
人間の感情ってそういうもんじゃないでしょうか。
それは、少々粗大ごみが積み上げられたもの。ただ、レールは使い物にならず、さらにその先には別のトンネルの暗い闇。
つまらない田舎を抜け出して東京で自分を試してみたい、そんな夢をなんどもなんどもつぶされてきた女の子にとうとう与えられた東京へ出ていくチャンス。
ずっとトンネルの向こうを憧れてきた少女がトンネルを抜け出した時に見た光景。
死体なんてありません。そこにあったのはただの行き止まりです。そして、それは夢に向かって進むことを絶対としてきた少女にとっては、とても無残な光景だったのでしょう。
この作品は、地震でレールが詰まったことを、女の子の夢の頓挫の比喩と描いているのかもしれません。
そして、同時に、
繰り返し繰り返し、女の子の夢の実現を襲う悲運というのは、震災の第一波(つまり震動)、第二波(津波)、第三波(原発)の比喩だったのかもしれません。
だから、震災の描写そのものについては、事後確認のようなものでさらりと済まされます。
ユイちゃん視点でトンネルを見ると、こうなります。
物語の中にトンネルは複数ありますが、トンネルを一つの象徴としてとらえると、
物語上、重要なイメージとして、何度も繰り返し放送されたシーン。
これがトンネルの入り口。
地震で北電が止まった中間地点。
(このシーンで終わるのか?美しすぎる。
複数の監督が演出するために、統一的な絵コンテがあるはずもなく、さらにはご都合主義的にシナリオが書き換えられていく連続ドラマで、最終回をここまで決めるとは、このドラマは、やはりすごい)
『ピンポン』とはどこが違うのかということですが、
二人のキャラが、アホキャラと虚無キャラという分かりやすいパターンではなく、
どちらも基本的にアホキャラなんですが、
『ピンポン』の台詞「この星の一等賞になりたいんです、卓球で」って、単純な一方向への成長です。
トンネルの前で「アイドルになりた~い!」と叫ぶ情熱は、このドラマでも肯定されていますけれど、
(叫んだあとの、上気したすがすがしい笑顔、橋本愛はこのシーンの撮影から役に入り込めるようになったそうです)
その情熱のまま、突っ走ってゴールに行きつくことは、肯定されていません。
別の出口を探すことが肯定されているようです。
それは、地震によって、日本人が今後今までと同じでいることができないということを暗に示しているようです。
地産地消、スローライフ、ロハス、地震の前からそういうことは言われていましたけれど、
アイドルさえ、そのようになるべし、そういうことなのでしょうか。
トンネルの暗闇の中にあったはずの分岐点、それは、大震災のことのようです
『ピンポン』と何が違うのかというと、原作が15年前、映画が11年前ですが、
あのころは、今と比べて、何かとまだぬるい日本社会でした。
そして何より、地震がまだなかったんですよね。