意外と楽しめる
世界が終わってきたような気がし始めて、もうかなりたちます。
Perfumeが失速し始めてからも、結構たちますけど、
それ以上にポップミュージック産業自体がすごい勢いで消滅しかかってますんで、Perfume相手に椅子取りゲームやる人たちが出てこないってのが真相なのでしょう。
そしたら、今後どうなるのか? 彼女たちが40になっても相変わらずこのままなのかというと、
ありうるような気がしてきました。
出生率1.5以下になってからの子供たちの子供の時代がそろそろ始まり、このままいくと新世代の人口が二乗で減っていき、もう新しいスターは必要とされなくなるのでしょう、たぶん。
Perfumeの独特な魅力、得意な演劇性ってなんだったんだろうとよく考えるのですが、
2018年の四月に私が思うところでは、
Perfumeのパフォーマンスって、曲が男の子の内面を表していて、
それとステージ上の女の子がどうかかわるかが短編演劇として成立するキモなんだ、
女の子の振り付けは別に詞や音を表現するのではなく、詞や音に他者として関わることによって演劇として成立してるんだ、という見方です、が、
このような在り方が成り立たなくなったらどうなるのかどうするのか、というと、
Reframeより「FUSION」「願い」「無限未来」ノーカット版【Perfume×TECHNOLOGY】
中田音楽と女の子三人がどう対峙するかをやめて、中田音楽が完全にコンセプトの一部となったとき、
もう三人の存在って、アイドル的など真ん中の存在じゃなくなってしまいました。
これ見ると、もうイレブンプレイの人たちと取り換えても大差ないんじゃないか?と思われた人も多いんじゃないでしょうか。
でも、わたしはこれは、アリだよねという気がします。
そしてとてもPerfumeらしい選択のような気がします。
このfusionに至っては、三人の存在と演技は本当にパフォーマンスの一部であって、彼女たちの身体よりも影の方が大切にされてる。
どうせ顔も見えないんだし、イレブンプレイのだれかと取り換えてもいいんじゃないかと思ってしまいますけど、でも、よく知ったる人たちがパフォーマンスしてるってわかってみてると、妙に楽しかったりします。
知り合いのステージとかライブってなんか楽しいでしょ?あんな感じですかね。
そして、あんな楽しさの感じをプロがガチのステージで出してしまうというのも奇妙な気がいたします。
そして、fusionはそういう詞抜きでパフォーマンス主体の曲という風に感じられたかもしれないですけど、
『無限未来』もシングルとしてはもう相当に腹の座った企画で、
男の子と女の子の曲とダンスの間での意思疎通というそれまでの基本コンセプトがほぼ消滅して、中田ヤスタカもPerfumeのわき役で、何かもっと神聖なもの大きなもののために行われている儀式というか、
で、その神聖でより大きなものってのが、たかだかオリンピックの開幕式のパフォーマンス権利程度のものだと、それはそれでがっかりなんですが。
わたしもうオリンピックに何の興味もないもんで。