どうしてPerfumeは腰が低いのか?
「曲かっこいいけどさ、でも、アンタらの存在意義って何なの?ステージでもさ、口パクだし」
彼女たち三人、日々こういう視線と戦っているわけでして、
その上、その冷たい視線で内在化させ、自分たち自身を見ることもほぼ日常化しているのでしょう。
「エヴァンゲリオンはすごい兵器なんだけど、そこに乗ってる自分に価値ってあるんでしょうか?他の人と代わっても何も変わらないですよね」
私の見立てでは、パフュームってこれと同じ仕組みなんでしょう。
生身の女の子達から、言葉を奪い、肉声を奪い、体の動きもロボットみたいにがらんじめにしてしまい、一つ一つ彼女たちのコミュニケーショーンツールを潰していったのが、perfumeというユニットなんですが、
普通に考えると、そうやってコミュニケーションの手段を奪っていくと、見る人聴く人には何も伝わらないはずなのですが、
周りの大人たち、ひでえことやるな、と思ったりもするのですが、
彼女たち自身が自由にできる残された一つか二つの手段からものすごい圧力でコミュニケーション力が噴出している、
私には、そうとしか考えられないのですね。
結果としては、その方法論によるいびつなコミュニケーションがものすごい力を持っているのですが、
ファンのほとんど、そしておそらく当人でさえ、なんでファンとperfumeの間に感動が共有されているのか、理屈よくわかっていなかったんじゃないでしょうか。
一時、あーちゃんが「作詞やらせて欲しい」と中田ヤスタカに頼んで即却下されたそうですけれども、
一枚のアルバムに一つか二つアイドル本人に作詞させることは、よくある手法ですけれども、
パフュームの場合、それやってたら、CDやライブでの自分たちの存在価値に割と低いレベルで安心して納得してしまい、
Perfumeのパフォーマンスにおける異常なまでのコミュニケーション欲求みたいなものが弱まっていたんではなかろうか?と私は思うのですね。
「曲かっこいいけどさ、でも、アンタらの存在意義って何なの?ステージでもさ、口パクだし」
という批判に対して、作詞を少々たしなみます、という一番ありきたりなやり方に解決を見出そうとしたことを即却下した中田ヤスタカはえらい。
そして、そのような申し出を断られても、なお戦い続けた三人は偉い。
もし、本当にそんな人たちがperfumeだとすると、態度でかくなるわけないだろうな、と思います。
「私たちここにいてもいいんですか?自分たちの代わりなんかいくらでもいるんじゃないか?作詞作曲もしないアイドル歌手なのに、歌声を機械で加工されてるんですよ」
みたいに内々疑っているんだったら、観客に対しては、
「わかってくださってありがとう、応援してくれたありがとう、お客様は神様です」と思っていても不思議はありませんでしょう。
伝統的にロックのカリスマというのは、そういう人たちではありませんでした。基本的に態度でかいです。むしろ神のように振舞うことで、客は自分たちが救われると感じられるというような類のものでした。
これは、おそらく、ルネサンス以降神の存在への疑念を、人間の理性を信仰することで乗り切ろうとしたこと、そしてその結果天才崇拝という習慣が生まれたことの末裔みたいなものです。
ありがたい説教をコンサートで聴かせていただく、教祖のお言葉の意味を聖書を参照に解読させていただく、そういうあほらしい人間関係が普通で、
病めるファンが、教祖に魂を救ってくれないと絶望すると逆恨みで自宅に鉄砲持って押し寄せてくる、というような不毛な関係でした。
perfumeとファンの間の関係というのは、それとは、真逆でして、
perfumeファンにはおっさんが多いんですが、私もそうですが、perfumeに対して父親目線とかアニキ目線で見ている人たちがどうも多いらしい。
perfumeから感動を、と思っているファンは大勢いるとは思いますけど、perfumeに救ってもらいたいと思っているファンってあんまりいないと思うんです。ファンは、向こうに何かをしてもらおうというのではなく、
エヴァンゲリオン的な心理葛藤との戦いに、彼女たちが勝てるように応援しているだけなんでしょうね。
perfumeってデビューしたのが小学生の時ですから、中二病的な葛藤が芸能活動に反映されたこともあったでしょう。
そして、ファンがperfumeに見てきたストーリーというのは、女の子が大人になる過程で自分の存在意義と価値を見つけ自我を確立するプロセスだったのではないでしょうか。
perfumeのやっていることは、ある意味、人生パフォーマンスと言えるかもしれません。子供が大人に成長していく過程を見せる人生パフォーマンスであり、
普通、ロックとか芸術の世界で行われてきた、人生パフォーマンスというのは、これとは完全に真逆のものでして、
どこまでも自我を主張することにより、周囲から孤立し、成り行き上ひっかえすことができなくなり、自殺したりコカインの過剰摂取で死ぬというものでした。
悲劇的な人生、悲しい人生、それを演じることが芸術家の仕事、 普通はそういうことを人生パフォーマンスと呼び、
「あの人の死因はひねりが効いていないから減点20とか、晩年才能枯れすぎでもう5年早く死ぬべきだった減点40点、‥・」
そういうもんでした。
不毛でしょ、こういうの。
それと比べると、perfumeの場合は、花の種を庭に植えてみたくなる気持ちとか春が来るたびに家の敷地に入り込む野良猫を観察して楽しむことに類似性があるように思われます。
成長する過程を見て楽しむ、感心する、感動する、そういったところでしょうか。
小幡績氏が、「Perfumeコミュニティは、愛で成り立っている」と言われてましたが、核にいる三人が、おそらくこのような人たちなのだから、ファンも謙虚で素直に成らざるを得ないんでしょう。
よくある、ファン同士の「お前はわかっていない」「いや、お前こそわかっていない」的な解釈論戦わせて喧嘩みたいなことも多分ないんじゃないでしょうか。
何かに似ているな、これは、と思っていたんですが、
贔屓のサッカーチーム応援する感覚と似ているような気がします。
自分のことはどうでもいいんですよ、まずチームに勝っていただきたい。チームの勝利が自分の勝利。
多分、Jリーグが日本に根付いてから、日本人の感性が少しづつ変わってきたんではないでしょうか。