掠れた文字 とPerfume
私の理解しているところのソシュールの言語学というのは、
「物事は他との差異でしか表せない」というものですが、昔から、それが解せない。
本能が告げると申しますか、何か違和感を感じるのですね。
どこが違和感なのかは、曖昧ですが、
ただ、言語学者なら、このような結論に達するのは、むべなるかなと、思います。
私たちの使う漢字は、アルファベットと比べると、絵に近いものです。
それはおそらく、漢字発祥の中国古代に於いて、中央アジアを西から移動してきた民族と、長江河口から北上してきた民族が、河南省や陝西省で出会い、言葉が通じないから絵を使ってコミュニケーションしていたからだろうと思われるのですが、
漢字を見たとき、私たちは、普通の場合、それを絵のように認識しません。香水の「香」を文字として認識することが主目的であるならば、どこそこの線がかすれているとか、角度が浅いとかそういうことはどうでもいいことです。重要なのは、「香」以外との区別がはっきりできるかどうかということだけです。
しかし、芸術の一ジャンルとしての書道として漢字が目の前に提出されると、私たちは線の太さとか角度とか色の濃さにこだわってしまいます。この場合、絵を見るのと同じ感覚で文字を眺めているわけでして、色や線のうねりにいちいち留意しているのですから、単なる文字として認識するよりも、脳みそはカロリーを消費します。
言語の処理は左の脳で行い、絵画的イメージは右の脳で行われていると言われていますが、
日本人は、漢字をただの文字として認識するときには左の脳で、書道として認識するときには右の脳で行なっているようです。
そして、非漢字圏の外人が、「香」の字を見たときに、恐らくは絵画を愛でるときに使用する右の脳が活性化するでしょう。
その外人は、「香」の文字が他の文字とどのような点で差別化が図られているのかについて知りませんから、全ての線にまんべんなく注意が行ってしまうでしょう。
日本人なら、「香」の文字をパッと見た時に、他との差異を表す記号として認識し、色の濃さ、止やはねの細かい誤差を無視した圧縮データ量で脳内処理しています。
非漢字圏の外人にとっては、どこに着目して差異を探り出せばわからないのですから、目に見えるままの視覚的データを脳にインプットしてしまい、フリーズを起こしてしまうはずです。
これは、アラビア文字について学んだことがないなら、日本人も同じような体験をすることができます。
どこに着目して、一個ずつの文字を切り出していっていいか分からない。それゆえ文字と文字との差異を区別するということが当然出来ない。
結果として、仕方ないから、全ての視覚データを脳にインプットしてしまい、あまりにもデータ量が多くて、フリーズしてしまう。
そうなりません?
そして、これも当然なことなのですが、文字の仕組みについて少々学んでみると、個々の文字がどのように組み合わさっているのかが分かりだし、そうなると、アラビア文字が左の脳で認識処理されているような実感を感じるのですね。たとえ意味が不明でも、これが文字であり、差異を表す記号の羅列ということがはっきり分かるだけで十分そう感じることができます。
これはアラビア文字以外の、珍しい文字ならどれでも同じことですし、発音にしたところでも大体同じです。
差異によって識別される記号という役割を、視覚的データなり音声データが持ち始めると、それらは脳の違う部分で処理され始めるのでしょう。
だから、差異というもので全てを語ろうとする態度は、言語学者なら当然のことだろうと私には思えます。
言語の面白い点というのは、個々の文字のみを記号として脳内処理しているのではなく、単語レベルで記号として脳内処理しているらしいことです。
同じ文章を、ひらがなだけでなく漢字を交えて書くと、読みやすくなりますが、それは漢字が記号として認識しやすいということであります。
漢字一文字を一目で認識できるのに、ひらがなの場合は「こうすい」という単語を四つの記号で表しているので、記号の数が増える分だけ、認識に手間取る、ということだと思いますが、
たしかに、漢字の方が読むのは楽ですけれど、ひらがなやアルファベットで単語を表記したからといって、私たちは、一字一字認識していたわけではなかったのですね。
そして、おそらく、標語とかスローガンレベルだと、センテンス一記号として認識しているはずです。覚えている覚えていない、聞いたことあるないじゃなくて、政府広報ならこの程度の内容だろう、という決め付けというべき記号化を私たちは行なっていないでしょうか?
スローガン、標語に対する不信感と不毛感は、わたくし、中国に住んでいたから、普通の日本人の数倍強いと思います。
それにしても、
この研究をした人は、偉い、というか、面白い。
ほとんど金にもならないような内容の研究ですが、これ読まされた人は、人生の謎が一つ減って、その分だけ気分が軽くなります。
実は、英単語にしても、単語レベルでひとつの図形的記号として認識しているわけでして、そうなると漢字と似たようなもんでしょう。
そして、それゆえ非英語圏の人間にとっては、一字一字ちまちま認識しつつ英単語の意味を脳内解析していたとしたら、まどろっこしくて、英語読もうなんて気にはなれません。
この英語力のラインを超えていかないと、日本人の国際化というのは見えてこないのでしょう。
音声に関しても、同様に言えまして、
生得的にヒトが認識しやすい音域が設定されており、その音域を使って人は喋るのですが、
各言語によって子音が多かったり少なかったり、その他の要因で微妙に言語に使う音域が異なります。
日本語は母音が多く子音が少ないですから、音声的には野太い部類。それに対して英語は子音が多いですから、私たちにとってはシャカシャカ雑音がなっているような発音が多い。
日本人にとっては、英語の音の多くは、言語認識の枠組みからずれたものが多いので、他との差異を表現する記号として脳の中に入ってこない。
記号ではなく、そのままの音として耳に入ってきやすいのです。
無論これも、訓練で克服できますが、日本人の外国語に対する苦手意識というのは音声学的にちゃんと理由があるのです。
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Perfumeというのは、韓流のような上から目線の「マーケティング」で出来上がったものではなく、偶然偶偶出来上がった美しい傑作なのですが、
アイドル志願の女の子三人に、作詞もさせず、機械みたいなダンスをさせ、ちゃんと歌を歌わせないだけでなく、音声を機械加工までする。そこまでしたあとに、「この状態で観客とコミュニケーションとってみろ!」と放り出すような鬼畜なゲームなのではないか?と私は考えているのですが、
その仕組みの一つ、声を機械的に加工してしまうことですが、
Perfumeを聞いていて、わかったことは、テクノのコンピューターの音の中では、機械的に加工された声は、埋没してしまう、というか、音の高さの近いコンピューター音と激しく競合しているように感じられます。
これはどういうことかと申しますと、人間は、普通、その注意が、人の顔と人の声に向いやすい。
人は生まれた時は、無防備で独力で生きていけない存在ですから、保護者との間にコミュニケーションをとる能力を先天的に獲得しています。
人間の声、人間の表情、人間のぬくもりに強く反応するように私たちはプログラムされているらしいのですが、
機械的に加工された彼女たちの声は、この優先枠から逸脱して、普通の音として扱われている、もしくはそのような傾向を帯びているらしいです。
機械的に加工された彼女たちの声に、ある種の物悲しさが宿っているように感じられるのは、そういう理屈があるからなのでしょう。
彼女たちが何を歌っているのかよくわからないのは、中田ヤスタカの詞がよくわからないからというのはもちろんありますでしょうけれども、
人は人の声に優先的に反応するという条件を剥奪された後の、遠い距離感が、「奇跡でも起こらない限り通じることのない想い」を演出している、私にはそのように思われます。
そして意外なことであり、当然なことなんですが、言語的要素を薄められた声は、記号的に処理されることが少なくなる分、そのまま音として認識される分だけ感情に響きやすい、そういう利点もあるようです。
実に多くの人が、機械加工された彼女たちの声を愛らしいと言っているのですね。