『spring of life』を一行で要約

「生命の核に到れるなら死んでもいい」
私が『spring of life』を一行で要約するとこうなります。

「何言ってんの、あんた?」60%
「そういう見方もあるかもね」30%
「それ、多分正しいわ」10%

こんなところですかね、私がそういうことを言った時の周りの人たちの反応は。


ちなみに、有名な映画のわかりにくいものを一行で要約すると、
ブレードランナー』は「生きたいと願うことが人間の条件。
甘い生活』は「天国はないけど天使はいるよ」
地獄の黙示録』は「自己否定するまでは正しいんだけど、其の後どうしていいのか分かりません」
となります。

映画を要約する際のテクニックを駆使して、このPVを語ろうと思うのですが、

まずざっくりと、このように分けて考えます。

  1. PVにおけるストーリーパート
  2. PVにおけるダンスパート
  3. 歌詞
  4. 音楽

この四つのうちで、意味の取りやすいのは、ストーリーと歌詞。
意味の取りにくいのは、ダンスと音楽です。

私たちは、誰かと音楽を語り合うときに、ついストーリーと歌詞というはっきりしているものの方に傾いてしまいます。
これはyoutubeのコメント欄を見てみるとわかると思います。背中からプラグ抜いたら、みんな止まってしまった。パフュームって一心同体なんだな、って。

もちろんこれは正しい解釈なのですが、
ストーリーと歌詞、これらは言葉というデータ容量の小さい情報に過ぎません。本当に容量の多いのは、要約される前の映像であり、要約しにくい音楽の方です。


映画って、常にやっていることというのは、
観客にストーリーというわかりやすいオトリを与えて、映像を無意識的に見させるのです。
観客の意識はつねにストーリーを追っかけることに向けられ、大量の視覚情報がサブリミナル的に与えられていることに気がつかない。

私たちは、サブリミナルというと、映画の中にヒトコマ分の広告が紛れ込んでいるものを思い浮かべてしまいますが、
あんなん効果ないって言われています。私みたいに視力の悪い人間だったら、視力のいい人より効果薄くなるでしょ?そういうもんなんですか?

目に見えないはずのものが、人の心に働きかける。嘘だろ?

でも、目に見えているはずなのに、見ていることを意識していないものは、まんまとサブリミナル効果発揮できる、そう思いません?




わたし、『グリッター』のPVでPerfumeのファンになった人間でして、PVのストーリーよりもダンスに興味があるんですね。

そんで、ストーリーパートほとんど無視して見ているんですが、

まず、のっちから踊ります。
なんでのっちが最初はセンターなのかというと、欧米でデビューするなら、生身の健康的な肉体さらさないとダメなんですよ。
貴族は肉体労働免除されているから、むくむく太って青白いって、インドと中国とその周辺国の伝統で、
ヨーロッパの貴族って、肉もりもり食って乗馬して体ムキムキってのが普通なんです。

体貧弱だと、底辺っぽくって嫌!って連中のとこに乗り込んでいくんですから、
一番体つきよくて、顔よくて、ダンスのキレのあるのっちにまず躍らせる。そんで、ほかの二人のダンスシーンにのっちのキレを残像として被せる訳です。

そんなわけで、のっちがセンターの時のダンスは、ストーリー説明する画面挿入したりしない。ひたすらダンスだけ。
それに対し、かしゆか、あーちゃんのセンターの時は、ストーリー説明のカットを挟んで、ズタズタにしているんですね。

ダンスはあくまでのっち、ほかの二人は下手じゃないんですけど、欧米のムキムキ信仰について考えると、パワー足りないから、目立たないように編集している。


次の曲やそのまた次の曲で、力強さ前面に出すんじゃなくて、可愛らしさとかお洒落さ出すんだったら、かしゆかやあーちゃんの使い方変わると思います。

こういう編集しちゃうと、のっちがリーダーに見えちゃいそうになるんで、センターで踊る時間はみんな公平に配分している、そういう思い込みで見てしまうんですが、

それぞれがセンターの時の振り付けを同時に再生して比較してみると、
のっちのダンスとかしゆか、あーちゃんのダンスって振り付け微妙に違うんですよ。更に言うと、歌詞も微妙に違うし、メロディーも微妙に違う。


あっ、騙された!と思ったんですが、
何度ものっちのダンスを見ていると、ある時、ふと気づきます。
ダンスシーンが表現しているものとストーリーが説明しているのは、ほとんど同じなんじゃないか?
ダンスは抽象的にストーリーを表現している、そう思うようになります。

そして、「spring up speed up」の歌詞のところで、センターの子がドタバタ歩きで、前に歩いてくるシーンで、自分はなぜ泣けるのかの理由を見つけた気になるのですね。

ドタバタと千鳥足みたいに前に出てきて、背中のコードがいっぱいに伸びたところで、電気が消える、

これは、このPVのラストの背中のプラグ抜いたらみんな止まってしまうシーンをダンスだけで表現したものであり、ストーリーとして演じられる分には、間抜けなのっちがアホっぽいことやらかしてしまう、ユーモラスなんだけど仄悲しいものになっていますが、
ダンスだけで表現される時は、そんな口調じゃないですね。
音楽の強さ、ダンスの強さ、歌詞の強さを考慮してみると、
「生命の核に到れるなら死んでもいい」くらいの要約が正しいだろうと私は思います。

ここまで強いメッセージを放出していながら、そこに被せられるストーリーは、まぬけさと仄悲しさであり、

私たちの意識の部分は、マヌケさと仄悲しさを認識し、
無意識の部分は、「生命の核に到れるなら死んでもいい」正直口に出すこともはばかられるような強いメッセージを感じている。

なんでかわからないけれど、Perfumeは泣けてくるという人は多いと思いますが、
理由は、確かにあるんですよ。

こういう洗脳みたいな手法をperfumeはしょっちゅう使います。タチ悪いことに、本人たちは奇跡を生み出すための手品やってる自覚が全くないんですよ。

みんな、一見するところのあのアホっぽさにガードゆるくなっていますんで、そのゆるさにどぎついものを突きつけられると、受身を取ることができない。



もう少し続けます。のっちのダンスで言うと、55秒目の振り付け、「はじけるような」で体のバネを活かせるような動きをしますが、
桜の季節に『spring of life』を聞くと、「生命の春」と翻訳してしまいそうになるですが、歌詞のことを考えると、どちらかというと「命のバネ」の方が妥当なんだろうと思います。

そんで、体のバネを表現する振り付けと歌詞でスプリングとはいる箇所が、一致していないんですよ。
完全にずれている、というか、言葉に動きを従属させようというつもりがまるでない。

そうかというと、「dance for joy」の箇所では、いかにもPerfumeな盆踊りポーズなんですが、ここはぴたりと歌詞に対応しているんですよ。


視覚イメージと歌詞がポリリズム的と延々と私は書いてきましたが、ほんとにそうです。



ついでにもう一つ、
映画がやっている手法なんですが、
―>の方向の向こうにゴールがあり、その方向を向く、その方向に動くことはポジティブな評価であり、<ーはネガテイxブであるというもの。

映画って、動いているものをカメラが追ってるんじゃなくて、通してみた時に、画面が−>方向に進行していくようにカメラの位置を決めていくんですが、

ちなみに言うとアメリカ映画は−>の方向に動きますが、日本映画は<ーの方向に動きます。


このPV、映画じゃないんですけれど、ストーリーがありますよね。
そして、ダンスパートは基本−>よりで、ストーリーパートでは<−向いていないですか。
そして、最後のカットは―>方向に向かっている。

海外向けのPVですから、アメリカ式にポジティブな方向、ゴールの方向をー>側に設定し、
自分たちの殻に閉じこもった状態を<ーで表現している、そう言っていいでしょう。

かしゆかと、あーちゃんの振り付けで、「それは奇跡」の歌詞に目の上に手をかざして遠くを見るような、結構間抜けなポーズがありますけれども、

あれは、奇跡のある方向、遥か遠くで奇跡が待っている方向を見つめる振り付けなのでしょう。
もちろんー>方向を見ています。
彼女たちが最後に歩いていく方向と同じであり、最後のカットで彼女たちは奇跡が待つ方向に歩いて行って、そこに到着する前に死んでしまう。



映画が常日頃やっている洗脳テクニックから考えると、このPVが狙ったのって、そういうところでして、

私は、むちゃくちゃなこと言っているように見えるかもしれませんが、『edge』の「誰だっていつかは死んでしまうでしょう」

との兼ね合いを考えても、そのぐらいのメッセージで楽曲とPVを組み立てよう、と周囲の人たちが話し合っていても全然おかしくないだろう、と。
そして、パフュームにこんな歌演じさせる周囲のスタッフには、命かけているような奴がごろごろいるんだろうな、と思うと、泣けてくるんですね。


カリスマファンの話聞いているだけで泣けてくるってのもすごいんですが、裏方の存在が透けて見えると、それに対しても泣けてくる、
ほんと、Perfumeは異常な存在です。