私ナチュラルにこんなこと考えてましたわ 気にいらん人ごめんね 歌詞 『スワローテイルバタフライ』と『不自然なガール』
1980年代中盤にMTVがすっかり世の中に定着して、楽曲がよくなくてもPVが斬新ならヒット曲が生まれるようになった時に、
ある有名ミュージシャンが「映像は曲が頭によびよせるイメージを固定してしまうから好きじゃない」と言っていた。
その発言と矛盾するように彼は相当凝ったPVを作っていた。
私がパフュームを面白いと思ったのは、映像と音楽の新しい融合の形に見えたからであり、
上で取り上げたミュージシャンの発言からもわかるとおりに、音なり歌詞は聴く人の頭の中に何らかのイメージ、それも視覚的なイメージを呼び起こしている。
この傾向が人間にとって普遍性が高いなら、楽曲が人間の頭の中に曖昧なやり方でイメージを喚起するところに、いきなり本物の映像イメージをぶつける、もしくは接ぎ木してみせたら、面白いことが人間の頭の中でおこるのではないか?
私にとってパフュームというのはこういう遊びであり、遊びすぎたせいで体調を少し悪くした。
一番よくあるタイプの詞は、プロデューサーの承認を受けたあとの映画のシナリオのようなもので、完成形で容易な変更は認めらにくい。歌は歌詞カード通りに歌われる。
このような歌の詞は、カラオケでは非常に歌いやすい。
『ぼくはくま』
ぼくはくまくまくまくま、くるまじゃないよ、くまくま
歌詞カードに単色で書かれている歌詞を歌うとき、テクノサウンドのように単一の強さで歌うのではなく、強弱を付け声の音色を変化させ、謂わば、歌詞カードの単色を絵の具で多色に塗り替える如き操作を行う。
ぼくはくまくまくまくま、くるまじゃないよ、くまくま
もちろん当然、この歌詞にはメロディーが重なり、楽器の音が重なる。それらが多重に折り重なりハーモニーを形成して音楽を作る。そうした最終型で私たちに届いてくる詞は、歌詞カードに書かれている単色の活字とは印象が大きく異なっている。
歌のあり方として一番シンプルなこのスタイルでも既にこうなのだから、
以下のチャラのようなタイプでは、歌詞カードはさらに信用の置けないものになる。
チャラの一番のヒット曲で『スワローテイルバタフライ』の詞の一行目
「止まった手の平 震えてるの 躊躇して、 この空の碧の青さに 心細くなる」
歌詞カードに単色で書かれてあるのはこのような一行だが、
私がこの歌を最初にラジオで聞いた時には、このように聞こえた。
「汚れた手のひら、震えてるの ちょうちょ ‥・‥・、あの空の‥・の青さに心細くなる」
どうしてこのような空耳アワーが生じてしまったかというと、
チャラは母音つまりアイウエオをはっきり発音しない。英語で多用される曖昧母音の発音を使うので、何の単語を歌っているのかわからなくなる。
この歌の詞は岩井俊二と小林武史とチャラの競作という事になっていて、チャラのいつもの詞と比べると明晰な意味の箇所の割合がものすごく多い。
この一行目は岩井俊二の作詞かなと思ったりもするのだが、それだったらもうちょっと論理的な詞だろうに、と思うのだが、
・「止まった手のひらが震えてる」 止まっているのか震えているのか、どちらなのかはっきりして欲しい、矛盾していないか?
・「躊躇」 字幕なしで聞かされるには、難しすぎないか、この単語は。普通の日本語の詞には漢語の熟語は使わない。漢語熟語は同義語が多く、それに口語で使わないので抑揚が付けにくいゆえ。
・「あおのあおさ」 ただでさえ言葉数を減らさないとメロディーに合わせにくくなる日本語の歌でこんな同語反復を行うなど、想定外。
このような要因に、ちゃら流の発音が加わると、
私の場合は、
「汚れた手のひら、震えてるの ちょうちょ ‥・‥・、あの空の‥・の青さに心細くなる」
このような空耳アワーの時間が始まる。
どうして「汚れた」の単語が来たのかというと、この歌の前にちゃらは『罪深く愛してよ』という歌を歌っていたから。
題名がアゲハチョウの意味なのだから、躊躇を ちょうちょ と聞いてしまうのは当然だと今でも思う。この詞にはどこにも「ちょうちょ」とか「アゲハ」という単語が出てこないのは不自然。
そして、聞き違えることが正しいことだと思うと同時に、一旦聞き違えてしまうと、歌詞の文法が破綻し始め、やがてはドミノ式に歌の中の文法ルールが壊れ始める。
そうなると、歌詞カードには整然とした文法の日本語が印刷されているはずなのに、耳で聴くだけの詞は、至るところに空欄が発生し、私は聞くたびに聞くたびに、この空欄を埋める作業を行なっていた。
「躊躇」を「ちょうちょ」と聞き違えることで開始されるこの空欄埋めの作業は、当然のことながら正しい解答というものがない。
ちゃらが何を思って歌っているのか?メロディーはどんな心を表現しているのか?それぞれの楽器の音色はなんの比喩なのか?そういうことを考えつつ、結果としては、そのようなほぼ言葉にすることが不可能な手がかりから、私は私の心の相当におくぶかいところを探り続けていたということになる。結局、この空欄に当てはまる言葉というのは私の心の中にしかなかったからだし、それが正しいか間違っているかを判断するのも私以外に誰もいないからだ。
この歌が流行した1996年夏中、私はこんなことをやっていた。部屋に戻ってくると、この曲ばかりが延々とリピートされていた。
チャラはこのような技法、つまり詞を歌った時に空耳アワーが発生し、詞の中に空欄をいくつも生じさせることの名手だった。意図してやっていたのか、それとも自分の思いを言葉にまとめられず、分裂症っぽい形の詞をそのまま「商品」として世に出していただけなのかもしれない。
それでも、この頃、私はチャラが大好きで、彼女の魅力が何なのかについて理解しようと努力してみた。
そして、いわゆる「布教活動」も行なっていた。日本のミュージシャンで一番すごいのはチャラだといって、ほとんど無理矢理にCDを録音したテープを知り合いに押し付けたり、場合によっては自分の持っているCDをあげてしまい、自分の分はもう一枚買い直した。
私がこんなことをやっている間に、この曲はヒットチャートをじわじわと上がり続けた。そして夏の終わりに映画が公開され、秋が来たとき、この曲はチャートの一位になっていた。
でも、彼女の技術の仕組みは、私には、まだはっきりとは分かってはいなかった。
パフュームを聞いてしまった今なら、チャラのやっていたことが、はっきりと分かる。
チャラは自分の思いの言葉で伝えられない部分、自分でも不明瞭な部分を、空欄として歌詞の中で提示し、それを聞いている私に穴埋めさせるという共同作業を強いていたのだ。
パフュームの場合、ほとんどの曲では、その歌の解釈や総合的理解に於いて、詞に頼ろうという気が最初から起きない。それは、PVに於いてもしくはライブやテレビのパフォーマンスにおいて、彼女たちの映像イメージが強すぎて、詞と音楽を超えたものが発生しているからだ。それを、再度削ぎ落とし、詞の形に戻して、楽曲を理解したつもりになっても仕方がない、私にはそう思われる。
『不自然なガール』
みりゃ、わかるよ。あんたち三人むちゃくちゃ不自然よ!、そう思ってしまった途端、詞は私にとって参考情報程度にとどまることになる。
この詞は、要約すると、恋心を素直に打ち明けられない為に二重人格的に分裂した内面を抱えるに至った女の子のことなのだろうが、
不自然なガール と 自然で本来の私 の二人が一人の人間の内面でせめぎ合っているという内容と考えると、
不自然なガールってこのPVで言うと、だれ? 自然で本来の私って、だれ? というふうに見てしまうことになる。
3Dメガネを掛けている小さな女の子達が不自然なガールで、パフュームの三人は自然で本来の私なのだろうか?
そう思ってこのPVを見るなら、話は簡単だろうし、悩みの種もないだろうし、三人がユニゾンで歌ったとき、それは三人が一心同体で心を合わせているとしか聞こえないのだろう。
しかし、私には、パフュームはそう見えないから、とことん面白い。視覚イメージを利用して音楽をとことん歪ませる、視覚イメージがどのように音楽に干渉できるかの実験とその成果の誇示が、パフュームなのだ。
三人の個性の色分けを考えると、
私にとって、「あーちゃん」とは言葉の縛りからなかなか自由になれない人という印象がある。それは、彼女が中田ヤスタカに作詞させて欲しいと頼んだ事、そして、ネットのどこかで見たのだが、彼女にとっての理想の休日の過ごし方は、身近な人と親しく過ごし一日の終わりに風呂場で半身浴しながら日記を書く事だそうだ。
そして、三人の髪型服装を比較してみても、一番お姫様願望が強そうだ。
彼女がどうしてああいう無茶なMCがライブで出来てしまうかというと、彼女は「私は本物のお姫様じゃけん、お姫様らしくないことしても構わん」そういうことなのだろう。お姫様願望とは、一つの願望であるところの物語を常に自分の耳元にささやき続ける行為といえるだろう。
そしてそのような性格タイプである故に、たいていのPVの中で「あーちゃん」が行う演技は、ストーリーに寄り添ったものであることが多い。彼女はストーリーを読み取る力が強い。そして逆に、ストーリーがわからない場合は、どうしていいのかわからない。
それと比べると「のっち」は、意図や考えやストーリー以前に、体と生身の存在感が全面に出るタイプ。
「かしゆか」の場合は、なにが飛び出してくるのかわからない深く濁った沼のような魅力がある。
この三人を組み合わせてパフュームのイメージ、そしてパフュームの楽曲が作られるのだが、
最初の「あーちゃん」がソロで歌う箇所。街で好きな男の子に出くわした情景を歌う。自分の思う気持ちを言い出せないことに対するじれったそうなゼスチャー。
その次に出てくるのが「かしゆか」大きなメガフォンを持ってきて、そこに何かを吹き込む。
それをきかされる「のっち」
このPVは、『不自然なガール』という楽曲をどう解釈したものかというと、
言い出せないシャイな女の子が「あーちゃん」で、好きだと言い出したいという女の子内部の激しい欲求が「かしゆか」。
女の子内部の葛藤を、パフュームのそれぞれの人物で表現しているということであるのだが、今これを書いている私も、最初からこのやり口に気がついたわけではなく、いろんな曲のPVをなんどもなんども何時間も繰り返してみる過程で、だんだんと分かってきたことである。
中田ヤスタカは、三人の歌声を楽器の音色として割り切って扱い、楽曲のどの箇所には誰の声が、どの箇所には誰の声、どの箇所にはユニゾンと、まるで三人の個性を一旦分解したあとで、絵の具か何かのように楽曲の中で利用している。
そして、PVに於いては、このような中田ヤスタカの技法の上に加えて、三人の個性と一般的イメージを絵の具のように用いることで、物語の中に複雑ないめーじをつくりだしている。
三人の女の子が仲良くユニゾンしているだけとパフュームを見ている限り、このような世界は絶対見えてこないし、歌詞カードを単一の色彩の活字と見ている限りに於いても見えてこない。
このPVの一番目立つシーンは、間奏にあわせての「盆踊り」で異論はないと思うが、「盆踊り」をセンターで踊るのは「のっち」と「かしゆか」だけ。
盆踊り!!!に関しては、最初にこのPVを見たときは、本当にびっくりした。まさか、こんなところでこんなものをみるとは!という感じだったが、このある意味での不自然さを先頭に立って行うのは、「のっち」と「かしゆか」なので、この歌で「本来のシャイな女の子」を演じているのは「あーちゃん」だということは、この点からも強化されている。
じゃあ、「のっち」は何をやっているのか?と言えば、傍観者的なもう一人の私であり、この歌の世界には「本来のシャイな女の子」と「不自然な女の子」と「傍観者としての女の子」の三人がいる。
この歌が4分間かけて表現しているものは、「本来のシャイな女の子」と「不自然な女の子」の葛藤であり、「本来のシャイな女の子」にとって不自然なガールだったはずの「自分の欲望をはっきりと表現することを正しいと考えるもう一人の自分」が逆に、「自分の思いをはっきりと言い出せない女の子のこと」を不自然なガールだと決め付けることの成功する逆転劇なのである。そして、その逆転劇は、第三者の傍観者の自分の賛意を得て多数決で可決される。
曲が始まってから終わるまでの短い時間の間に、この一人の女の子の内面は一変していた。
この歌は「あーちゃん」センターで始まり、「かしゆか」センターで終わる。
作曲家、振り付け師にまず注目がいくパフュームだが、私のようなyoutube派にとっては、最終的なパフュームの製品化はPVの監督によって成される。彼の曲の解釈が、youtube派にとってはパフュームの大方の部分であり、それは世界のほかの国の人たちにとっては多数派であることを考えても、実のところPV監督のパフュームという小社会における存在感は、普通に思われているよりもはるかに重い。