一日一食ダイエットとパフュームで悟りを得た、という話
Perfumeのダンスは、歌の歌詞とポリリズム的にずれている。そしてポリリズム的に一致する箇所がある。
ポリリズム的あり方というのは、この社会そのものだからである、と。
私たちは、互いに自分たちの人生を生き、限定された視野しか与えられていないのですが、本来何の関係もなかった人たちと、同じ時に同じことを考えることなんていくらでもあります。そしてズレたことをしている時もありますけど、ピタリとハマる瞬間に喜びを感じているものです。
全く別の時間に、ほとんど同じことを別の人がやっている、もしくは考えているということもあります。
私は、以前、「ああプラスチックみたいな恋だ」という一行の解釈について、
「可塑的で何度でもよみがえる恋」と書いたんですが、この三年前に、ヤフー知恵袋にほとんど同じことを書き込んでいた人がいました。
どうせ、私たちの頭の中身なんて、ほかの人が考えた知識の切り貼りですし、性格のパターンだって数通りしかないと言われています。
私たちにとって、本当に個性と呼びうるものは、これまで生きてきた人生の文脈くらいのもんで、
逆に、この文脈をなかったことにして世の中見回してみると、
自分がいなくても、自分がするはずだったこと、言うはずだったことは、世の中のどこかでおこなわれたり言われたりしているのではないか?
そういうことは、自分が生まれる前もそうだったし、死んだあともそうなのだろう。
パフュームがポリリズムというズレと一致の繰り返しをステージ上で演じることで、人間社会のこのようなあり方を表現していたのはなかろうか?というか、意図せずとも結果として彼女たちが表現してしまったものは、そういうことなのでしょう。
こういう認識に到にあたり、一度自分の自我を疑ってみる、そうすると生き生きとした人間社会の構造が見えてくる、今の私にはそう思えます。
そんなことを考えながら、一日一食ダイエットで脳内麻薬の分泌が捗っている状態だったので、ものすごく自分の考えていることにリアリティーを感じてしまい、
これは、所謂、禅でいうところの悟りではないのか?と思ってしまったんですが、
禅にしても、一日一食ダイエットみたいな事やって、脳内麻薬ドバドバの状態を人為的に作っているのでしょう。
そうなると、自分の考えに妙なリアリティーを感じるわけでして、
悟りというのは、言葉にしてしまうとわりとしょーもない陳腐なものでして、あくまでもその言葉にどこまで実感を得られたかがキーなのでしょう。
そしてその実感ゆえに、その後の人生の何らかの指針となりうべき強固なものであるのでしょう。
脳内麻薬出ているときには、通常の何倍もの実感が得られるもんです。
それゆえ悟りとは、言葉にして他の人に伝えられるもんではないのでしょうけれども、
詞のこの箇所だけを見てみると、痴話喧嘩みたいな情景しか思い浮かばないです。
心が通ったり、通わなくて喧嘩したり、その繰り返し、ポリループ、
もともとは、そのような趣旨の歌だったのかな、なんて思ったりします。