坂の上のパフュームⅢ 『P.T.A.』の本質は年齢退行の集団催眠
なぜ、被催眠状態に至るほどまで自分がパフュームを評価し、聞き続けていたのかにはいくつか理由がある。
- 音楽と映像の共感覚について何年も考えていたこと。
- 言語学と心理学の知識を有していたこと
- 未来に対して悲観的だったこと。
- 西洋近代文化の文脈に懐疑的だったこと。
- 自分がかつてあんなに好きだったポップミュージックが消滅しようとしていること。
などだろうか。
不思議なことに、パフュームにはそれらが全て関わっていた。
そして、彼女たちの動画を見ることで、私自身は無意識的に多くのメッセージを受け取っていた。いわゆる夢のお告げとでも言うべきようなかたちで私に示されることもあった。
夢とは人間にとってなんだろう、ということを真面目に考えるきっかけになったのだが、
夢とは、意識と無意識の対話の時間、というふうに今の私は考えている。
私はある朝起きたとき、突然、一日一食のダイエットで体重を高校生のレベルにまで落とすことを決意する。
それは、ほんの7キロ程度のダイエットだから大した苦労ではないのだが、ここにテクノトランスの音楽が被さったため、過剰なアドレナリンと脳内麻薬の分泌が重なり健康上つらくなった。
何はともあれ、パフュームから私は「年齢を遡れ」というメッセージを無意識に受け取っていたのだが、
パフュームという存在自体が、年齢退行を大人にしいるのは間違いない。彼女たちは聴衆に「大人になれ、責任をもて」、更には「私を一生食わせろ」とは絶対言わないだろう。
彼女たちが言うことは、「子供になりなさい、素直になりなさい」ということだけだ。
男として、こんな嬉しい言い草は他にいくつあるだろう?
このことに気がついたとき、私は愕然とした。日本における伝統的なイニシエーション、つまり青年が大人になるための儀式というのは、「あなたはもう大人だ」という刻印を彼らの皮膚に押し付けることではなく、「もう一度子供になれ、そして村長なり教授なり社長を父親と思え!」そういうことだったのだ。
つまり日本人を操るにはこういう風にやりゃいいんだな、と。
クィーンの『レディオガガ』
このやり方がナチくさいと批判的な意見は昔からある。
私が結果としてパフューム体験とは催眠体験だったのではないかとの結論に達したのは、
- 本来この手の音楽は、私は好きじゃない
- 彼女たちがアイドルでありながら擬似恋愛の対象的要素をほとんど感じなかったことは不自然だ。
- 大の大人が「うえしたうえうえしたしたうえした」、「たったたーん、たったたーん、たったたったたったたーん」なんて『P.T.A.』で出来るもんなのだろうか?
の三点が最後まで解せなかったからだ。
わたしには、PTAのコーナーがピンポンパンに見えた。どんなロックのコンサートでも、集団に一体感を感じさせるためのパフォーマンスは知性とは無縁だけれども、しかし、いくらなんでも大の大人がピンポンパンやロンパルームをやるもんだろうか?
この点は非常に興味深い。
なぜ彼女たちのライブはああも盛り上がるのか?
その理由は彼女たちのキャリアが11歳という年齢で始まったことに由来する。つまり、最初から彼女たちのライブの客層は、彼女たちよりも歳上だった。そのような年上が彼女たちと一体感を感じるためには、彼女たちが大人として振舞うか、それとも客に年齢退行を強要するかのどちらかだ。
二つのあり方のうち、パフュームの選択は、客に年齢退行を強いる芸風だった。これが悪いわけではもちろんない。そして、これによって彼女たちは日本芸能史に名前を残しかねない存在になっている。
11歳のライブにつどう年上の男たちに彼女たちの年齢に降りてくることを求める。もともとローティーンのアイドルを求める男性には、年齢退行願望がある。そして、彼女たちは容易にこれを見抜いただろう。
実生活で弟のいる「あーちゃん」は、客を自分の弟をあやすように扱うことをかなり早い時期に覚えたのではないだろうか?
ローティーンからミドルティーンになったとき、テクノポップ路線に変更し、それゆえファンの年齢層は彼女たち自身よりもずっと上であることが基本として固定されることになった。
つまりパフュームは、最初から上の年齢の男性をあやすのがうまかった。というよりも上の年齢の男性をあやさざるを得なかった。そして、今の人口構成比を考えると、彼女たち同世代や下の世代を狙うより、上を狙ったほうがはるかにマーケットが大きいことも、彼女たちのこの経験を有効なものにしている。
そんな彼女たちが到達した頂点が東京ドームの『P.T.A.』のコーナー。
日本人の一般の大人のダンス能力は、幼稚園児と大差ない。しかし、それにしても、幼稚園児にお遊戯を教えるようなやり方で、満員の観客を躍らせてしまえるものなのだろうか?もちろん、彼女たちへの同化願望がファンに強いのなら可能なのかもしれない。
そして、この時気がつくのだが、私たち日本人はナチの『意志の勝利』のように父なるカリスマに対して喝采し唱和するようなことができない。
言っていることの無茶っぷりに関してはあーちゃんといい勝負。
「だってみんなカレー好きでしょ」
「だってみんなゲルマン民族好きでしょ」
(ロックンロール自体がナチ的であり、「ヒトラーは最初のロックスター」とデヴィッドボウイは言ってます)
まあ、レニ・リーフェンシュタールは、映画界追放されて当然だわな、こんな映画、催眠効果ばっちりの作って、芸術は無罪とか言っても無理だろ。
シンガポール行動党。リークゥワンユーは善良なヒトラーと揶揄されることも多い。
シンガポールでこんなことを書いたら、即、秘密警察にチェックされる。シンガポールを賞賛するバカは恥を知れ。
YMOの散開コンサート。これヨーロッパでなったらOKなのかな?法律に引っかからない?
ムソリーニの黒シャツ党だよな。
しかし、パフュームの半分も盛り上がっていない。
ネタとしてファシズムを取り上げているのだとは思うけれども、この洋風ファシズムのあり方って日本人の心をつかめないのよね。
私たちが一体化できるのは、母の元にひとつの家族としてまとめあげられる時だけなのだ。
そして、これに関しては、日本人が伝統的に営んできた組織の姿そのままである。リーダーは男であるとしても、母親のように、緩やかに組織をまとめなくてはいけない。厳しく管理せず、適当になあなあで受け入れる。
そして、偶然にも、日本の芸能史上初めてパフュームがこのような芸能の可能性に気がついてしまった。
今までの女性アイドルは、男の子にとって母親ではなく、恋人のかわりだった。
また、女性ミュージシャンが母親であるとしても、男のファンを幼稚園児扱いしたりはしなかった(『私の子供になりなさい』中島みゆき)せいぜいが年齢相応の男もしくはもっと年上の男の子として扱うはずだった。
パフュームのコンサートの一体感とは、客をおしなべて幼稚園児扱いすることによって成り立っており、こう扱われると、だれもかれも、老若男女であろうともみんながみんなちょっとやんちゃな6歳児になれてしまう。
それゆえだろうか、彼女たちを恋愛の対象的にみてしまう男のファンは今はあまりいないはず。あれだけ太ももを露出した衣装を着ていても、幼稚園児が自分の母親の美貌を誇らしく思うような感慨しか湧かないのではないだろうか?
付け加えておくが、催眠術の基本は、相手の内なる欲望を解放してやることだけである。誰だってセックスはしたい、寝ていたい、食いたい、暴れてみたい、そういう情動を開放するためのプロセスが催眠術なのだが、
誰だって死にたくはない、
だからそれ故に、催眠術で人を自殺させた例は私は寡聞であるゆえにまだ知らない。
催眠術は、内心やりたいと思っていることを開放してやるのが基本の技法である。
そして、「子供の頃に戻る」という催眠術もよく行われる。
「あなたは、3歳に戻りました。海岸で砂のお城を作っています、バブー」
それは、私たちが時間を逆行し、どこかの時点での人生の間違いをやり直したい願望が強いからかもしれない。そうでなかったとしたら、朦朧とした記憶の奥に本当の幸せがあったと感じるのが人の常なのかもしれない。
また、現在は少子化で子供若者の数が中高年に比して少なく、「こどもになれ、わかくなれ」という無意識的メッセージの放出は、世の中にはものすごく強く受け入れられる。いつまでも「ブレイブ&ストロング」で若者を煽り続ければいいというものでもない。
ビジネスマーケティング的には、社会の無意識的欲求をすくい上げ、それに対して無意識的なさりげないやり方で応えてやると、爆発的な成功がもたらされる。この点においては初期ビートルズとパフュームの間にはなんの相違もない。