心の木
- 作者: C.コッホ,林勝造
- 出版社/メーカー: 日本文化科学社
- 発売日: 1970/01
- メディア: 単行本
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バウムテスト
樹の絵をどう描くかによって、その人の内面がわかるという趣旨の心理テスト。
正直、このテスト、そんなにあたりません。
木がどの上な形状をしているかということに関しては、知らない人の方が多いですから。
植木屋とか林業従事者にとっては樹木の形はどうなのかについて、明確なイメージがあるでしょうけれども、
普通の人にとっては、樹ってどんな形しているのかについて曖昧にしか認識していませんので、
実際の植物学的には歪で病的なものを描いてしまう可能性があります。
また、松や桜のように湾曲する幹の樹木しか身近にない人と、まっすぐ伸びる針葉樹しか身近にない人では、個人の内面性を差し置いて、まず全然違う絵を描くことになるでしょう。
そういうわけで、非常に問題の多い心理テスト形式なのですが、
それにしたところで、樹木の絵を書く事でその人の内面が表現されるという発想には抗しがたい魅力があります。
話は少し変わりますが、
尾てい骨はしっぽの名残で実用性のない部位です。
親戚づきあいにおける使えないオジさんみたいなもんで、進化の成り行き上仕方のない余剰物とでもいいましょうか。
生き物は、環境に合わせてもともとあった器官を退化させたり、新しい器官を進化させたりしているのですが、
退化したからといってそれが全くなくなるわけではなく、痕跡として残っているものです。
これは骨格や内蔵に限ったことではなく、心の問題つまり脳に関しても似たようなもんでして、
私たちの脳は、魚や爬虫類の脳の上に哺乳類の脳が上乗せされ、その突端に人間の独自な脳が肥大しており、私たちは人間らしさというものをその肥大化した部分の機能に見出そうとしがちですが、
脳の機能つまり心のあり方のより基礎的な部分ほど、より下等と私たちが日ごろ見下しているはずの動物に似通っています。
さらに言うなら、本当に心の根幹的なあり方というのは、植物のメカニズムと似通ったものなのかもしれない、
ガーデニングで植物をいじっているとそんなことを考えるようになりました。
植物人間という言い方がありますが、植物は自ら光合成を行いエネルギーを生産しているのであって、
外部からの点滴で生命を維持している状態の人間とは全然違います。
また、動物は食物連鎖の中で、互いに喰い喰らわれの関係になり血なまぐさいそれと比べると植物は穏やかで…と思われるかもしれませんが、
植物とは、むちゃくちゃ利己的な生命体でして、
水、日光、土壌の養分の摂取に関しては他者との譲り合いの美徳などはありません。
ひたすら、自分の拡大だけを目的とし、少しでもライバルの不利になるように振る舞い、
種をつけてそれを地に落とせば、その種が来季に芽を出すときの為に、これ以上ほかの植物が種を撒き散らさないようにと、枯れた葉や茎で地表をなるべく覆いつくそうとします。
同一種が他の競合種を駆逐すると、今度は同一種内で互いに嫌がらせを行い、最終的には同一の株の枝同士が光を求めて互いの足を引っ張り合います。
いくら利己的な人間がいたとしても、
兄弟同士の殺し合いはともかくとして、右手が左手に往くはずの栄養を独り占めしようとして切り落とすなんてことはありえないでしょう。
これが植物の倫理観というもんです。
というか倫理観というのは、中枢神経により自律する動物のためのものでして、植物とは無縁のものです。
そんなこんなで数シーズンを減ると、こんどはあまりにも増えすぎた単一種を餌にした害虫が大量発生し、それによって繁栄した植物種はその地区からむなしくも絶滅してしまうことになるのですが、
ある種の根こそぎビジネスのやり方というのは、これと非常によく似ています。
もしくは東西冷戦のありかたもそうなのかもしれません。
人間の組織というのは、個人個人を組み合わせて巨大化いく中で、人間個人の差異が消滅してしまい、漠然とした無意識的な自己拡大への欲求みたいなものが顕在化してしまいます。
最終的には自分の首を絞めることになるにも関わらず、ライバルを潰し、ただひたすら自己拡大の道を進み続ける。
未来がどうなるかに対しての論理的な推論、つまり人間をして地上の勝ち組にならしめた論理的推論はこのような植物的なプロセスには介在する余地がありません。
人間の脳の深層、つまり心の原初的な地点のあり方は、植物的である、と私はかんじずにはいられないのですが、皆さんはどうお考えになられますか?
心とは崇高なものである、魂とは人と機械を隔てる神秘の領域である、
そんなふうに考えたい方もいらっしゃるとは思いますけれども、
私から見ると、心や魂こそ、単純で保存や複製のしやすいもののように思われます。
人それぞれいろいろな感じ方がある、解釈は千差万別、
そういうことも可能かもしれませんが、
なぜそう感じるに至ったのか、なぜそのような解釈に至ったのかの理屈というのは、それが無意識的であれば無意識的であるほど、唖然とするほど単純で植物的な反応に過ぎないのではないか?
「ちゃんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃちゃん、ちゃんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃちゃん」
9秒目までがあらわすのは、恋の始まりの予感。
9秒目からドラムが入り、恋による興奮状態の開始。
15秒目で振付と共に歌が始まるが、恋する人と相手の間に何かのツナガリができたことを示す。