土田晃之
自分で自分のブログを読み返すと相当楽しい。
ついでにはめ込まれた動画を何時間も見ていたりする。
自分が何かいていたか読み返してかなりビビるんですが、
最初のしばらくの文章というのは、リアル世界の知り合いが読むことを想定して書いていたもので、
心やさしい学校の先生が生徒になるべく易しい言葉で、知識与えようとしているような文章が並んでました。
ぜんぜん今と文体が違うやんけ。
で、そのしばらく後は、ずっと小幡績氏のことばかり書いていた。PERFUMEについて小幡績氏のことばかり書いていたということは冷静になってみると、相当変なんですが、
最初の内はなるべく知的な風を装ってPERFUMEについて語ろうと構えていて、
その際に小幡績氏の話風を参考にしてたんでしょうね。
んで、今はどうなったかというと、
「単なるアイドルファン?別に俺そんなんでもかまわんよ。三人の内誰が一番好き?みんな好きだけど、とりあえずあーちゃんね」
という、ある種の達観というか、しまりのないファンになっていることに気がつきました。
まあ、それはいいとしまして、三人の内で誰が一番好き?ということについても、実のところ割とどうでもよかったりで、
パフォーマンスしているときのPERFUMEに熱烈に入れ込んでいるだけで、ステージから降りた後の彼女たちには、割とどうでもいいんですよ。
それは私生活はそっとして置いてあげようというような殊勝な心からではなく、
届きそうなんだけど届かないところにいてほしいという一ファンからの微妙な距離感だったりします。
たとえば、道歩いているときにばったりかしゆかに遭遇したよりかは、本屋で小幡績氏に遭遇して「わたしもパフューム大好きなんです」とかいって、その場でサインもらうために
パフュームの写真集を購入して(小幡氏の本ではなく)
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「先生、ここに『次の世紀もPERFUME』って書いてください」とか懇願体験するほうがはるかに楽しいだろうな、と思う次第。
以前読んだPERFUME関連ブログのなかで濃ゆいファンの方が
「坂井真紀に遭遇したときに、いきなり『わたしもPERFUME好きなんです』と話しかけたら、自分のことを芸能人坂井真紀ではなく単に有名なPERFUMEファンとしてしか認識していない人がいるということにものすごく戸惑っていた」と言われていて、
私はそれ聞いてなるほどと思ったんですが、
私の場合、おそらく土田晃之に遭遇したら同じことやってしまうでしょう。
彼はいろんな肩書き持ってますけど、私の中では超有名PERFUMEファンなんですわね。
「土田さん、わたしもPERFUME大好きなんですよ。サインください。ついでに一番好きなPERFUMEの曲名も書いてくださいませんか」
たぶん、こういうこと言ってしまうでしょう。
土田晃之だったら、こんな風に自分のことを超有名PERFUMEファンとしてのみ認識している人に出くわしたら驚いたり戸惑ったりするのだろうか?
もしかすると、驚かないのかもしれません。
彼は、家電、ガンダム、サッカーなどへの偏愛を語る芸人であり、
「ガンダム語るときはチェックしてるけど、家電の話するときはテレビ消してる」とかいう中途半端なファンも結構いそうですから、
土田晃之を超有名なガンダムファンとしてのみ認識している人もいるのだろうな、きっと。
そのように考えると、
「土田さん、わたしもPERFUME大好きなんですよ。サインください。ついでに一番好きなPERFUMEの曲名も書いてくださいませんか」
この言い方で、気安くサインのそばに一筆書いてくれるかもしれないな、と。
以下の写真、いつもどおりネット上から勝手に拝借しておりますが、
これらの写真撮った方々、まさか土田晃之経由でPERFUMEの話する人に流用されているなんて思いもよらないでしょう、と考えると楽しくなっている。
つまり、
「全ての道はPERFUMEに続く」と言うことですが、
中国蘇州の庭園のつくりと言うのは、窓を額に見立てて風景を絵画のように切り取る遊びであり、築山を上ることで風景が一変することであり、角ひとつ曲がったときに全然別の場所に着たように錯覚を与えることであり、
園内を一周することで何度も何度も驚かさせることになるのですが、
園内での驚きとは、何百年も前のこの庭の設計者に仕組まれたいたずらの様なものです。
観光客として私が園内であげる「ほー」とか「へー」とか「やるじゃない」とかそう言う感嘆や賛嘆のため息って、何百年も前の設計者によってとっくにシュミレーション済みのものだったりします。
この庭園は、人間を喜ばせることを目的としたプログラムのようなものであり、喜びを与える側と受け取る側には時間を越えたコミュニケーションが成り立っていると私には感じられます。
日本の場合だと、近いスタイルの庭園は天竜寺でしょうか?それでも中国蘇州のものほどには細かい仕掛けがなされておらず、
人の作為性は後ろに引っ込み、前面に来るのは自然の美のほうです。
もちろんそれは悪いことではないのですが、時間を越えた人と人とのコミュニケーションという感じはあんまりしない。
兼六園になると、そのコンセプトは実物大盆栽。
体力と気力がみなぎっていない場合、土田晃之と蘇州庭園の接点をみつけるという変な文章の展開というのはかなりつらいです。
PERFUMEファンになりたてのときは、ほぼ毎日このレベルの体力気力を消耗する文章を三つくらい書いていたような気がしますが、
普通の精神状態だと、書くの難しいです。
蘇州庭園のあり方というのは、言葉を介さないコミュニケーションであり時間の制約から解放されたものであります。
パフュームをyoutubeで見るというのは時間と場所の制約から解放されたものであり、歌詞という言葉は辛うじてあるものの振り付け主体の視覚的なコミュニケーションです。
どちらも曖昧でほっとけば無意識的にしか感じることのできない類のものですが、
それでも、真剣にそれらの表現に向かい合うと、ものすごく雄弁であり、人間の心を如何にして保存しそれを時間空間を越えた人に伝えていくかの優れた実例だということに気づかされます。
そして、それがどうして土田晃之なのかというと、
私にとっては、家電も同じもののように感じられるのですね。
使う人が、その家電を使っているときに発する賛嘆や感嘆や独り言は、あらかじめ設計者によって想定されていて、
使う人の腰が少しでも痛まないようにとか、少しでも時間節約できるようにとか、そういうもろもろの心遣いが、プラスチックの無機的な手触りと非生物的な形状からめらめらと感じられるのではないか?
家電ってパフュームと似ているんじゃないか?と。
土田晃之も、わたしのように、そういう特殊メッセージ読む才に長けてんだろうなと思ったんです。
もしそうだったとしたら、この人年取って枯れてきたら、枯山水芸人とかの肩書きも付け加えられるのだろうか?などと思ったんですよ。