いきなり歌いだしたりおどりだしたりする人って珍しいけど、

10月30日のコメント欄の続き

ミュージカル映画には、ダンスの暴走と言えるシーンがあって、話の筋から逸脱する。

暴走、あははははっ、確かにそういう感じです。

さっき、『恋の手ほどき GIGI』を見てたのですが、

恋の手ほどき [DVD]

恋の手ほどき [DVD]

アステアとかジーンケリーといった所謂ダンサーの出てこないミュージカルって、こんなにも踊らないものだったのかと、
改めて驚きました。

華のあるダンサー連れてきて、流行りの作曲家に何曲か作らせて、そんで手練れのスタッフ読んでこりゃミュージカル映画一本出来上がり、
って発想の映画ではないですから、この『恋の手ほどき』。

同時期の『サウンドオブミュージック』とかでもそうなんですが、
基本的にストーリーがかっきりと有って、基本的にリアリズムが全編通して貫かれているんですが、

それゆえ目立つんでしょう、いきなり歌いだすシーンというものが。

そんでも、歌い始めは、ひそやかに徐々に入るといった感じで、その際の動作とかもリアリズムの演技の延長線上に過ぎないのですが、

音楽が調子を上げていくにしたがって、段々とリアリズムから離脱していくというか、歌と踊りがメインになって、リアリティーが置き去りにされる離陸の瞬間というのがありまして、

もしくは、ストーリーとの整合性を考えて、感情の高ぶりを誇張するタイミングで歌い始めるとかそういう偽装もありますけど、

これ、アステアみたいなダンスの個人技を見せるためのミュージカルだと、ほんと、リアリズム置き去りにして、暴走としか言いようのない状態になります。

映画って、いかにして平面の絵空事にリアリティを持たせて観客をだまそうかという技術でして、
それと比すると
映画の前の娯楽である演劇では、観客は舞台の物語に没頭しているとはいえ、そこで演じられているものはやらせだということにたいしては映画よりもはるかに意識的だったはずです。

だから、物語の筋にのめりこむということはもちろんあるでしょうけれども、
「今さっきの見得の切り方かっこよかったよね」みたいな感じで「…や」みたいな掛け声かけたりしてたんだろうと思います。

ミュージカルって元々キャバレーの芸として始まったって話ですから、作り事を現実と錯覚させるよりも、芸をみせて感心させる発想が強く、舞台演劇見せられているのに近いのかもしれないな、などと思うのですが、

物語を伝えるということに対して芸を見せることが同等かそれ以上の比重を持っているということなのだろう、と。



それと比べると、パフュームって、よっかかるべき物語って特にないんですよね。一応歌詞はあるんだけど、あいまいなもんだし、

物語がもしあるとするなら、それは、彼女たちの人生の物語であるか、もしくはファンの個人的な人生の物語であるしかないのでしょう。


よっかかるべきストーリーがない、という点に関しては、
パフュームって身一つでステージに立っているわけで、タフだなというか、無意識まで下りていく類のパフォーマンスなのだな、と思うところです。




『パリのアメリカ人』
こういうのを見ると、パフュームって、やっぱ盆踊りなんだなと思う。
ミュージカルは、元ネタにバレーがあって、そこで使われていたお約束事が、教養のない大衆のためにとことん薄められたものと私は思っているのですが、


この動画の1分34秒からの、お勉強好きな女の子を表現する踊り。

バレーのお約束事的には、控えめでおしとやかな動きなのでしょうけれども、
パフューム的な見方をすると、
この動きを抑えた姿勢には力が籠っていて、
こんな姿勢とっているようでは、絶対本やお勉強には集中できていないよな、と私には見えてしまう。

一見真面目なお嬢気取っていても、頭の中はエロいことでいっぱいなんでしょ、的な見方しかできなくなっている私がいるわけです。


要は、この「おしとやかさを表現するには、体に力入りすぎている」振付を
お約束事として「おしとやかさ」で通してしまうか、
それとも、
「おしとやかさ と 力の入りすぎ」のズレを表現の深みとして利用するかの違いが

伝統芸能とパフュームの違いなのだろうか、などと、考えてもみました。