祭りってのは・・・ 『新日本風土記』
どうやら、ブログの題名が今一つすわりが悪い。
それゆえ、このように改める。
『すべての道はPerfumeに通ず』
祭りというと、
先日スーパーで買い物していた時に、『キノコ祭り』の名称で数日間売れ残ったエノキ、シイタケ、エリンギ、マイタケ等を抱き合わせにして本来の価格からすると二倍くらいの量でパックされたものが売られていたんですが、
野菜売り場の片隅で、誰の注目も浴びることなく、
萎びたエノキの茎や黒ずんで弱りかけのシイタケの傘の内側が『祭り』を僭称しておりまして、
私は、「これは違う。こんなものが祭であっていいはずはない」などと変なことをブツブツ思っていたのですが、
スーパーが、冬の鍋時に合わせて大量に仕入れたキノコが売れ残り、その見切り品を山盛りにしてお値打ち価格で販売することが、祭であってよかろうか?
少なくとも、販売員がハッピ着て気持ちのいい掛け声つけて売り込むべきではなかろうか?それができないとしたら、傍らにラジカセでもおいて売り口上をエンドレスリピートすべきではなかったのか?
そんなとるに足りないことに対して大きなお世話なことばかり考えているのですが、
私、この『新日本風土記』っていうNHK・BSの番組が好きなのですが、
松たか子の意味不明なポエムの朗読箇所を除くと、非常にクオリティの高い番組でして、
失礼な話なんですが、「こんな場所に、よく人住んでるな」みたいなところの神秘的な習俗をみて、
ほほーっ、なんて感心しつつ呆け顔して見てるのですが、
冬の裏日本をテーマにした回というのはそういう点からすると、どれもこれも見ごたえがありまして、
能登半島の回
キリコ祭り(むろんキノコ祭りではない)が終わった時の感極まった男たちの様子。
祭り… とりあえず一回は泣く
そういうもんでしょう。 萎びたエノキダケとは違うんです。
御陣乗太鼓
上杉謙信相手に鬼の仮面かぶって戦った村の衆を記念しての太鼓。
すごい荒々しい。
元々、芸能ってこういうもんで、耳で聞くだけのものではないでしょう。
これは太鼓の音を聞かせるというよりも、太鼓の音に仮託して猛々しい鬼と化した男の心象を語るもの、
そして音声は表現のせいぜい半分で、残りの半分以上は鬼を演じる人の振付と演技。
私から見ると、非常にPerfumeっぽいです。
こちらは佐渡島の回
毎年毎年若いもんの中から志願者が鬼の役を務める。
獅子舞のようにおひねりをもらえる家の前を踊り歩くのだが、腰を深く落とす踊りを半日以上続けるので、最後には自力で立って歩くこともできなくなる。
赤鬼と青鬼が二人でシンクロして踊る姿は、私に言わせるともちろんPerfumeで、
一人で踊るのは個人の踊りなのだが、二人がシンクロして踊ると社会が踊り始める、私にはそう見えた。
実際、この二人が踊ると、昔にこの役を務めた老人達の血が騒ぎ始めて、飛び入りで踊りだしたり、そばにいた子供たちも踊りだしたりする。
Perfumeのダンスのシンクロというのは、つまり社会を表現しているのであって、
ジンジャーとフレッドみたいなアンサンブルとはちょっと違う、と思った。
平成何年にどこそこの誰それが鬼の役で踊ったというのは、地域コミュニティーの中では延々と記憶され、そのことゆえに彼らは一目置かれる存在になるのだとは思いますが、
まあ、そのような主役を演じるにはそれなりの資質、イケメンとかスポーツ万能のリーダーだったとか、が必要なのだとは思うのですが、
そんでも、ハリウッド的なもしくは伝統的なロックスターのカリスマとは違うわけです。
正直言うと、祭りの主役には、個性なんかいらないわけです。むしろそんなもんは邪魔になる。
虚心に無心に祭りそのものを自分の身の内に取り込んでしまうこと、
そういう捨て身の態度が求められているのでして、
その為には疲労困憊するまで踊り続けなくてはならないのでしょうけれども、
ただそうやったときのみ、自分を超えられる、さらに言うなら人間を超えられる。
日本的なカリスマの在り方って、こういうもんなんだろうな、と私は思っちょります。
東京ドームの『Perfume』
これ、私には、祭の曳山に見えますわ。