「最終目的」 ユビさす

ダヴィンチの絵なんですが、
よく出てくるモチーフに、このユビさし。

日常実感として、人をこんな風に指さすことは憚られることなのですが、
おそらくこの当時のイタリアでもやってはいけないことだとは思うのですが、

何分、絵画とは過去と未来がない、厚みのない一瞬を表示しているだけなので、

そこに物語のふくらみを持たせようとすると、比喩とか暗示とかを盛り込まないとならないのでしょう。


最終目的を指し示す、それがダヴィンチの絵画に込められたお約束事なのですが、


この場合は幼子イエスが、人類の最終目的であるということなのでしょう。



こっちの場合は、

天国の所在がその答え。




私あんまり好きじゃないのは、無理やたらとPerfumeを権威的なものと結び付けて高尚なものに思わせようとする態度。

Perfumeはありのままでいいんですよ。


そして、芸術上のお約束事といえるようなものにしても、「それ知らなかったら盛り上がれない」的なものをPerfumeにまぶしてどうするよ?と思うのですが、
一般的に想定されるperfumeのファンが見たときに何も感じられなかったら、そういうお約束事はどういう意味あるよ?などと思うのですが、


このユビさし、実に単純な意味しかありませんので、
見ると、ダヴィンチ関係なしに誰でもわかると思います。

そして、別にダヴィンチを元ネタにしたというわけでもないんでしょう。
(まわりまわってダヴィンチからPerfumeにやってきたというのはあるかもしれませんが)


『コンピューター・シティ』の場合でしたら、最終目的は「真実」ですし、


Dream Fighter』の場合でしたら、最終目的は「サイコ−」


『マカロニ』の場合でしたら、「キミを守りたい」



んで、面白いのは、最終目的を目指していない、目指せていない場合は、指一本で行く先を指し示すことができない。

『セラミック・ガール』

なんで、「セラミッ・ガー」の振り付けで指が三本なのかですが、
この歌の主人公って、日常生活の違和感をとらえはしたものの、日常のいろいろなことに忙殺されていて、最終目的地を一途に目指せていないキャラのようです。

そして、それがだめなのかというと、最終目的に向かって辺りかまわず突き進むような人は、大概はクラッシャー人生歩んでいるわけでして、

こういう鋭さのない指先で前途を示そうとしている女の子の方がかわいく見えたりするものです。


そんで、指先の形と動かし方だけに注目していると、なんともせわしない振付です。
なんか古のポンキッキの『パタパタママ』なんか思い浮かべてしまいました、わたし。




ふと立ち止まって考えてみると、
絵画の中の人物とは、喋ることができない、いわば言葉をはく奪されていますので、彼らが私たちに何かを語りかけようとするなら、ユビ先を使うか背後に背負った物語を利用するかしかなかったりします。

それって、歌声を電気的に処理されて口パクやらされているPerfumeもおんなじですし、
そういうコミュニケーションの牢屋みたいなものに閉じ込められつつも外部と心を通わせる方法って昔からいろいろ研究開発されているのだなと気づかされる、

というか、言葉のほうが新参者なのでしょう。