「僕とキミ」研究序説 あんどれいサイド
きわめて私的な話ですが、
私の小学生の低学年の時の担任は、男子に対し
「自分のことを俺というな。俺というのは汚い言葉だ。僕と言いなさい」と命令し、
俺と自称したことがホームルームの時間に密告によりばれると、延々とその男子生徒をなじるという、
頭のおかしい人でした。
そして、私は、その教師が担任でなくなって以来、自分のことを僕ということが出来なくなってしまったのですが、
Perfumeの詞にある 僕と君 という人称代名詞、なんか変、
私は、日頃そんな風に自分と相手のことを呼んだりしませんし、
私の周りの人たちも、そうなのです。
僕と君って呼び合う男女関係って、ラノベとかエロゲーの中だけにあるんじゃないか、とずっと思ってきたのですが、
ちなみに この話、ohi-samaさんのブログでの話について、あっちのコメント欄に書ききれないので、こっちに書いているのですが、
彼によると、Perfumeで「僕、君」の単語がそろって出てくる曲って以下のものだそうです。
コンピューターシティ。
「絶対故障だ てゆうかありえない 僕が君の言葉で悩むはずはない」って、そこでいう君ってどんな人よ?全く実体がないのです。これは過去記事で書いてます。参考まで。Perfumeは愛を歌うか - ohi-sama’s blog
エレクトロワールド
もう、言わなくてもイイよね、わかるよねという凄まじい希薄感。
一応実体としての彼女はいるんですが、全て主人公の少年の自省で完結しているでしょ?
「ああプラスティックな恋だ」。難しく言えば可塑性ですかね。どうにでも変形可能だという、これまた実体がない歌。
DreamFighter
「ねえ みんなが言う 普通ってさ」。普通と言っちゃうから、どんな人なのかわからんのよ。何か特徴ないの?
GLITTER
「その日がいつか来るまで 泣かないよ 思い出すよ キミを」。もしこの歌が本当に震災犠牲者に捧げられた歌としたなら、もうキミはいないのでしょう。
「キミにも出来るはずさ」。ドラえもんが映画を見に来てくれた子供達に言っているんでしょ?そういう不特定多数のキミであって、のび太くんが歌うなら「僕にも出来るはずさ」でも良いわけです。
DreamLand
夢の中にいるキミを救いに行くストーリーなのですが、夢の中のキミというのは、すなわち自分自身なのでして「僕=キミ」をもっとも強く体現する楽曲になっています。
Perfumeの場合、中田ヤスタカの曲と詞に、振付とPVの映像がかぶせられ、そこに女の子の演技と解釈が加わり、それが録画編集され、私たちに目に届く、という多人数による創作プロセスがありますので、
中田さんの詞は、Perfumeの素材の一つにすぎません。
さらには、
最終的には、リスナー個人個人の人生が曲の解釈と理解を決定する最も重要な要因なので、
人により解釈が違うのは当然なのですが、
でも、「中田さん的には、こう考えてたらしい」ということについてr位階しようとするなら、詞に着目するという方法も当然ありです。
わたくしの持論に、
近未来三部作に対し、ロックオペラ的なストーリーを見出そうとしすぎると、多くのものを見落としてしちゃうよ、というのがありまして、
ohi sama的に「僕と君」に着目して近未来SFの設定をとりあえずうっちゃっておくと、多くの作品を一つのグループとしてまとめることができるようです。
そして、ohi sama的には 詞の中に「僕と君」の片方だけ出てくる場合、
たとえば 『クリンクリン』
詞の中に 「君」が出てくるし、おそらく僕に相当する人物も登場する「マカロニ」
等は、
「僕と君」が両方出てくる詞の場合と比べると、はるかに客観性の高い世界の物語だそうです。
それと比べると、「僕と君」の二つが出てくる詞の場合は、ぼくときみしかいない閉じた世界であって、リアリティが実のところ希薄、だそう。
そこで、私は以下のように考えてみました。
私たちは、(もしかすると私だけなのかもしれませんが)、
自分と相手のことを 僕と君なんて呼称したりは普通しない。
だから自分のことを僕、相手のことを君と呼称する詞はヴァーチャルな世界についてのものである可能性が高い。
そんなことを言うとフィクションの物語なんて、すべてヴァーチャルリアリティといえるんでしょうが、
とくにPerfumeの場合は、自分を僕、相手を君とする場合は、その二人は一つの世界を共有していない確率が高い、そう考えると腑に落ちる点が多いです。
エレクトロワールドって、手紙残すことでしか連絡とることのできない男の子と女の子の話ですし、
グリッターって、おそらく死んだ人と生きている人の対話でしょう
ポリリズムも、異なる拍子が最小公倍数で一致するって、二つの世界の分かれ目の結節点のことでしょう。
そう考えると、ドリームファイターって、
「僕らは走り続ける」っていうくらいだから、ファイターズで複数であるべきではないか?中田ヤスタカは中一レベルの英文法間違えてないか?と思っていたんですが、
実のところ、あの詞でも、僕と君って別々のパラレルワールドに住んでいて、互いに励ましあうことはできても、それぞれが一人っきりで自分の戦いを戦っている、
本来はそういう詞なのかもしれない、と思うようになりました。
ついでに言いますと、
宇多田ヒカルの『ファースト・ラブ』だと、わたしとあなた ですが、
『トラベリング』だと、僕と君 なんですね。
まあ、宇多田ヒカルが男の子の立場で歌うという時点で、十分にリアリティ濃度が低いのですが、
曲の世界のリアリティと人称代名詞って関係あるらしい、と仮説を立ててみました。