年の差男女の物語 『グロリア』
『cling cling』の歌詞ですが、その解釈についてネットに書かれていることを漁ってみますと、
「あれって、あ~ちゃんと妹のちゃ~ぽんの関係のことじゃない?」と指摘された方がいて、
まあ、粗のない解釈しようとすると、そうなるわな、そうなり兼ねんわな、と思いました。
ちなみに、『cling cling』の歌詞の登場人物が、大人と子供であるのは万人が認めるところであるとして、その大人と子供の性別の組み合わせって、
女性大人・女性子供
女性大人・男性子供
男性大人・女性子供
男性大人・男性子供
の四通りが理論上あるのですが、
PV見てますと、あそこに出てくる子供が女性ですから、
「あ~ちゃんに追いつこうとけなげな努力している妹のちゃ~ぽんのことじゃない?」という人がいるのは至極当たり前のことのように私には思われます。
そして、PV作った人の詞の解釈にしたところで、女性大人・女性子供なのでしょう、だからああなったのでしょうが、
わたくし的にいわせていただくなら、四つの組み合わせの内、
男性大人・女性子供
男性大人・男性子供
の二つは強制的に却下。理由は、舞台で踊っているPerfumeが二十代半ばの大人の女性だから。
この曲を舞台で演じるときに、ちょび髭でもつけて男性であることをアピールしない限りは、男性大人の解釈は無理でしょう。
まあ、舞台の演技を別にして、
「何とかして~、お願い!」と泣きついている詞と解釈するなら、
男性大人・女性子供というのもアリなのでしょうが、
Perfumeは踊ってナンボ、CDで聞くことなんて年に数回しかないのが私のPerfumeに対する関わり方なので、
実物の二十代半ばの大人の女性がそこに確実にいるわけです。
男性大人の解釈、とりあえずないことにしておきます。
そういうわけで、『cling cling』の詞を
女性大人・女性子供
女性大人・男性子供
のどちらかと考えるのが妥当なのでしょうが、
先ほどの解釈のようにこれが西脇家の美しい姉妹愛についての詞だとしたら、ファンって楽しめるんでしょうか?
もし、本気で中田ヤスタカなりアミューズの関係者が、それでいいと思ってるとしたら、お先真っ暗よ。
いやしくもアイドルでしょ、たとえ年齢差20歳の男女の物語で子供の年齢が6歳くらいだとしても、そこに恋愛の側面のない曲に需要なんかあるわけないです、ハイ。
先日、以前からずっと気になっていた映画『グロリア』を見ました。
人生の裏街道を歩いてきた中年女性グロリアが、隣の家の子供を預かった直後、その一家がマフィアに惨殺される。
それから、マフィアの追手から二人は逃げ回るのだが、その過程で二人の間に理想的な男女の関係が育っていく、
というあらすじ。
Perfumeの『cling cling』の詞が分からない、という人の中に、
clingの意味が分からないというレベルの人がいて、
そのくらいウェブリオとかエキサイトで調べろよ、と思うのですが、
このファンが勝手に編集した『グロリア』のyoutube映像の中にも、何度も何度も「cling to your chest」としか言いようのない場面が出てきます。
『グロリア』は映画ファンの間では有名なのですが、一般的知名度の浸透具合でいうと、こちら『レオン』の方がランクが上でしょう。
実のところ、『レオン』って『グロリア』の男女をひっくり返して、男性大人・女性子供の設定に変更したリメイク映画でして、
そのことをわかったうえで『レオン』を見てますと、ナタリー・ポートマンの家族がマフィアに皆殺しにされるまでの展開が『グロリア』と比較した場合には、顕著にタルく感じられます。
非常に人気の高い映画なのですが、
この映画最大の欠点は、当時12歳のナタリー・ポートマン。
かわいすぎる、というか既に十分に美人さん。むしろ現在の彼女の様子は劣化したとしか言いようがないくらいで、
それゆえ、映画にあまり集中できない。
見終わった後に「ナタリー・ポートマン可愛かったけど、どんな話だったっけ?」みたいになってしまう。
大人・子供の物語は、子供が背伸びして大人についていこうとする物語であるゆえに、子供がタバコ吸うシーンがよく出てきます。
ナタリー・ポートマンもタバコ吸ったり、酒飲んだりします。
もうこの映画から20年たちましたが、子供が酒飲んだりタバコ吸ったりするシーンは検閲されずに公開することは可能なのでしょうか?
「あの人私の父親に見えるけど、実は恋人なの」と彼女がホテルのフロント係に言うシーン。
ナタリー・ポートマンの可愛らしさにめまいがしそうなシーンですが、そのせいで二人はホテルから追い出される羽目に成ります。
男性大人・女性子供の物語の物語が、一般社会的には不道徳とされているのが露骨に示されている場面です。
これが、女性大人・男性子供の場合だと、
「グロリア、愛してる。死ぬほど愛してる」と6歳の男の子が言ったところで、観客のほとんど誰もそこに猥褻感とか不道徳さを見出したりはしません。
それは、女性大人・男性子供の物語は、結局のところ母性愛に収束してしまうからなのですが、
男性大人・女性子供の場合は、年の差恋愛物語にしかならないのですね。
それゆえに、『レオン』には「cling to your chest」というようなシーンがほぼありません。男性大人が女性子供をだっこすると、不道徳と言われてしまうのがこの世の決まり事ですから。
これと通底する理屈でしょう、世のお父さんたちは思春期の娘から
「パパ、キモい!」と謂れもない罵りを受けているのですが、
世のお母さんたちは思春期の息子から
うぜぇ、とか、ばばぁ、とか言われることはあっても、性的な不快感を表明する「キモい」とまでは言われません。
この年齢差男女の物語群、普遍的に人間の興味関心を引くテーマらしく、数多くありますし、また制作者同士でも互いに気になるのでしょう、
それぞれの映画の中でオマージュとでもいうべきシーンがいくつも見られます。
年齢差男女の物語でしたら、これは女性79歳男性19歳で年齢差60歳。
その奇抜で異常な設定ゆえにカルト映画として評価が高い。
生きる気力横溢した老女と、死ぬことしか考えていない19歳の男。
枯れかかった街路樹を引っこ抜いて森に植えに行くシーンがありますが、
生きる気力のない男の子に生命力を取り戻させるのを象徴するかのようなシーンでしたが、
もしかすると、『レオン』のラストでナタリー・ポートマンが鉢植えの植物を地面に植えなおすのは、この映画からきているのかもしれません。
こちら2005年のイギリス映画。
老女と青年の年齢差物語なのですが、
老女が老人ホームの仲間に対するメンツから、たまたま知り合った青年に「孫の振りしてください」と頼んで仲間をだまし続ける物語。
作中の仲間をだますだけでなく、観客にさえもこれが恋愛物語の変形にすぎないことをかくし通して騙し通すのですが、
二人が公園のベンチに腰掛けて仲良く話しているところに、青年の元カノが通りかかり、
「さっき遠くから見てたけど、あんた新しい世界に可能性見出したんじゃない?『ハロルドとモード』みたいな。って、私の言ってる意味わかるでしょ?」
映画の台詞で種明かししてました。
こちら1962年制作のフランス映画。絶対に宮崎駿が『千と千尋の神隠し』の参考にしているだろう映画です。
Child actress - Patricia Gozzi - Sundays and Cybele ...
インドシナ戦争にパイロットとして従軍し、その任務の中で少女を打ち殺したことからメンヘラ化した青年が、修道院に捨てられた12歳の少女と知り合います。
毎週一回の面会日に二人仲良く遊ぶことで、青年の心が癒されていくのですが、…
戦争を起こした政府の罪、何もしなかった教会の罪、そしてそれらをすべて現地の兵隊が背負うことになる。
その癒しを与えてくれるのが本来は有責任の社会でも政府でも教会でもなく、不幸な境遇の少女なのですが、
そういう物語構造を無視して、虚心に画面だけ見てますと、
この映画、相当ガチな内容です。
『レオン』の中でも、
カフェの中でレオンが商談しているとき、店の外にいるマチルダに少しばかりヤンキーがかった少年が言い寄って來るのですが、その彼をレオンは突き飛ばします。
「あんな奴とつるんでたら、お前までダメになってしまうんだぜ」とか言いますけど、
傍から見ると、単なる嫉妬にすぎません。
そして、こちらの『シベールの日曜日』は、
メンヘラ青年とその介護にあたる女性 そして12歳の孤児の三角関係の物語です。
そして、大人男性・子供女性の不道徳性ゆえに物語はロミオとジュリエットのような悲劇に至るのですが、
まあ、それにしても、話の多くの部分は、三角関係とそれにまつわる嫉妬に
あてられています。
ちなみに、この手の物語の一番有名なのは、ナボコフの『ロリータ』なのですが、
その小説が発表されたのが1955年。
性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは5つの出版社から刊行を断られた。ナボコフの代理人はさまざまな出版社に足を運び本を読んでもらったのだが、各出版社の編集者は作品のテーマを見抜いてはいたようだが、そのあまりに難解な内容からか、これは読者には「ポルノ」にしかみえないという理由で出版を拒んだ。初版はポルノグラフィの出版社として有名なパリのオランピア・プレスから1955年に出版されたが、グレアム・グリーンらの紹介により読書界の注目の的となる。
(ウィキペディアから)
『レオン』も『シベールの日曜日』もフランス映画なんですが、どうも、フランス人はアメリカ人よりも、ロリコンに対して寛容なように思われます。
また、グレアム・グリーンは『第三の男』の脚本家であり、著名な小説家でもあったのですが、個人の趣味としてはガチのロリコンだったようです。
水商売している母親を店の外でずっと待っている女性子供とバンド首になって仕事も何もない男性大人。
少女に頼まれるまま自転車で一緒に海に行ったら、そこから二人で自転車一路北を目指すはめになるが、
気が付いたら、男は誘拐犯として指名手配されていた。
見事なまでに、上で紹介してきた映画群の毒気がない作品。
その理由は、やさしさと寂しさをテーマとしていて、恋愛の要素がどこにもないから。
女の子が演技できなかったのか、脚本があっさりしすぎてるのかわかりませんが、
女の子の個性が全く描かれておらず、
この映画にはタモリしかいないのですね。
そして、日本を北へ北へと向かうタモリに、いちいち有名な俳優が数分間すれ違う役で絡んでくる。
タモリはほとんど演技しなくて、絡んでくる俳優が上げ膳据え膳のように演技でもてなしてくれるのですが、
これがタモリに示された映画のやさしさとして、
タモリが少女に示すやさしさと対応しているように思われました。
これだけ毒気のない映画ですが、女の子を喜ばせるために雪の中でクリスマスツリーの飾りつけをするシーンは、しっかりと『シベールの日曜日』へのオマージュとなっています。
ちなみに上で紹介してた外国映画では、『グロリア』を除いて主人公の大人はみんな死にます。
タモリはどうなのかというと、誘拐犯として逮捕されるから悲劇的結末なのでしょうけれども、
恋愛要素のない毒気の抜けた物語ですから、その分減刑されたと受け止めることができます。
ついでにもう一本、
男性大人・男性子供でも、ちゃんと話は成り立つのですね。それと比べて、女性大人・女性子供の話って、寡聞ゆえに挙げることができません。
強いて言うならば、『cling cling』のPVくらいでしょうか。
タモリの方と違って、たけしの方は相当毒気のある話で、これ男性大人・女性子供の組み合わせだったら、制作許可おりないでしょう、たぶん。
まあ、親の立場で子供誘拐されるなら、たけしよりもタモリの方が安心できるというのがあります。ただ子供の立場でしたら、たけしの方がいいのかもしれません。
『菊次郎の夏』の物語設定は、男性大人・男性子供なのですが、
そのテーマは、大人と子供の男性が、母親に会いに行くという、
女性大人・男性子供の組み合わせなのかもしれません。
では、Perfumeの『cling cling』ですが、アイドルが女性大人・男性子供の歌でファンは盛り上がることができるのか?ということですが、
おそらく、
企画としてはぎりぎりセーフ。出来としてみると、不合格点、そんなとこでしょう。
Leave my girl alone 「ボクの女に手を出すな 」 - Trailer - YouTube
小泉今日子の主演映画二本目ですが、この映画『グロリア』を元ネタにしていると言われています。
ちっちゃい子供連れて敵から逃げ回る物語、アイドルが仲良くなる対象が幼児ですから、ファンの立場からすると嫉妬しようがないですし、
ファンとしても女性アイドルの母性について知りたいと思わないでもない。
ただ、あんまりヒットしませんでした、この映画。