関和亮 Perfumeのパラレルワールドの演出者 『微かなカオリ』
Perfumeの詞の世界は、一つの世界を共有していない男の子と女の子の物語が主だ、と私は思っています。
男の子と女の子の世界はそれぞれズレていて、交わることがない。
でも、何かのきっかけで七夕の日の織姫と彦星みたいな接点を得る、そういう物語。
例えば、『チョコレート・ディスコ』ですけれど、
全然もてない男の子がバレンタインデーに、「もしかしてあの女の子からチョコレートもらえるんじゃないか」なんてほのかに期待してたら、女の子が別の男の子にチョコ渡す現場に遭遇して、茫然自失のあまり走り出してしまう。
たぶんそういう物語です。
バレンタインデーの前日に男の子は「もしかして…」なんてドキドキしてた時に、女の子もチョコを手作りしながら「彼の心射とめることできたらいいのに」ってドキドキしてる。
二人とも同時刻にドキドキした点では、二人に接点はあるんだけれど、
チョコがこの二人を結び付けることはなかったことから考えるに、二人の男女はパラレルワールドに住んでるようなもんだったわけです。
そしてこの手のPerfumeのキラーコンテンツとでもいうべき曲のほとんどは関和亮がPVを監督しています。
Perfumeの基本コンセプトはパラレルワールドと私が感じるのは、もしかすると中田ヤスタカのせいではなく、関和亮のおかげなのかもしれません。
【PV】 微かなカオリ Perfume FULL - YouTube
パラレルワールドにいる男女が、なにかのきっかけで二つの世界のつながり口をみつけてしまう、それがPerfumeが表現してきた物語だとしましょう。
その小さなつながり口を通しては限定的な知覚しか与えられません。
例えば、Perfumeによくある詞で、手探りとか指先で探すとか触覚オンリーの認識状況。
それから、相手の姿は見えないのに声だけは聞こえる、とか。『Voice』のことです。
そして、グループ名のPerfumeって香水の意味で、嗅覚刺激する要素ですから、においだけで微かにつながっている男女の物語も当然あっていいはずです。
そして、その物語が、『微かなカオリ』のはずですが、
基本的に、男女は、ロミオとジュリエットみたいに別々の世界に生きています。
スマホで撮ったようにめる縦長の画像が執拗に繰り返されます。
この意味って、人間の体って縦長ですから、それをできるだけ有効に映像に収めようとしたらスマホを縦の位置で撮影するのが当たり前です。
つまり、この縦長の動画を撮影している男の子の存在が、それとなく私たちには実感できるのですよね。
本当に好きな女の子をスマホで撮影するとき、youtubeに流すことかん変えて横向きで撮影します?
少しでも大好きな女の子の全身を多く映したいと思うはずでしょ?
『微かなカオリ』のPVってホームビデオ調のぬるい雰囲気が漂っているのですが、この映像の中には、男の子の存在が如実に見て取れます。
そしてこの男の子は、画面の中に出現して女の子を抱きしめたりキスしたりするのかというと、そんなことしません。
やっぱ、本来接点のないはずのパラレルワールドのように、この曲の終わりと同時にこの男の子の視点も消滅してしまいます。
こういうこと考えながら、『Magic of Love』のPV見ると面白いんですが、
ほとんど同じカットが山ほどあります。
つまり『Magic of Love』のマジックって、パラレルワールドに住んでいる女の子と男の子を結び付けるための魔法だったはずなのですが、少なくとも関和亮はそのように理解していたはずなのですけれども、
アメリカもイギリスもそのようには理解してくれなかった、Perfumeが長々と引きずってきた物語を理解してくれなかった、ゆえの海外での興行成績なのでしょう。
そして、それ以上につらいのは、私も含めて、日本人のファンでさえ『Magic of Love』をこのような観点で見たり聞いたりできなかったということ、なんですよね。