光と影

perfumeについて調べれば調べるほど、様々なことが分かってきて、驚かされます。

数ヶ月前に発売されたperfumeのアルバム『JPN』ですが、前作から二年四ヶ月の期間が空いており、
いままでは、旬のアイドルだったら、一番の書き入れ時には半年に一枚アルバム出していたもんですが(これは初期ビートルズも例外ではない)、
彼女たちの場合、2年4ヶ月という長いインターヴァルがあります。一番の稼ぎどきに一体何やってたんだ、と思わされるんですが、

彼女たちの楽曲は、中田ヤスタカという人物に全て委ねられており、彼はperfume以外にも曲を提供しているので、それ故にperfumeのアルバムがなかなか出せない事情があるでしょうが、

音楽がPCで管理される時代になると、ほとんどの人はCDを一枚まるごと通して聞かなくなった事実がこの裏にはあると思われます。
普通のCDには、捨て曲というものがあり、人によっては三分の二位は、アルバムの体裁を整えるための水増しした捨て曲です。
ある意味の形式主義が音楽業界にまかり通っていました。
この形式主義は、日本に限らず、アメリカやイギリスでも同じであり、
アルバムの中に捨て曲のないミュージシャンなんて数数えるくらいです。
ビートルズには捨て曲はありませんでしたけれど、解散後の各自のソロ作品は、好意的に見ても半分は捨て曲です。

そんな、誰も聞かないような捨て曲で水増ししてまでアルバムの体裁を整えるのは馬鹿らしいことなのではないか?

最新アルバム『JPN』ですが、
この収録曲のほとんどは、シングルとして、もしくはコマソンとして、既に発表されており、アルバムは2年半の間に発表してきたものを纏めたもの(まさにアルバムの語源にふさわしいんですが)と言って構わないでしょう。

これって、ビートルズ以前のポップミュージック界では極めて当たり前のことでした。
まだ、世の中が貧しかった頃には、素人に毛が生えたようなミュージシャンの楽曲の為に2000円以上出してアルバム買うなんて、まともなことじゃなかったですから、ポップミュージックはシングル曲中心でした。
エルヴィスもシナトラもそういう状況でヒット曲を飛ばしていたのですが、

ビートルズ以降、世の中のあり方が変わってしまいます。
60年代の経済発展で、高価なLPレコードが若年層でも買えるようになったこと、それにビートルズはレノン&マッカートニーコンビが作詞作曲を担当したので、いちいちプロの作曲家にお伺いを立てる必要なしに、好き放題に自分たちの曲を発表する場としてのLPレコードが必要だった。

また、そうやって自作自演することが、自己主張とみなされ、社会が変革する時代には自己主張するアイドルは、ヒーローとして祭り上げられることが可能だった。



そういうことになります。

自己主張の場として12曲なり14曲なりを一度に発表できるLPアルバムというのは重宝でしたが、

とりたて自己主張する必要のないアイドル歌謡曲でも、そのような形式でアルバムを発表しなくてはならなかったのですね。

ビートルズ以降の状況、つまり、アルバム一枚の中にヒット曲は二曲、それ以外はアルバムにしか収録されていない曲という構成は、もしかしたら不自然なのではないだろうか?ということに関しては、ほとんど疑問を持たれてきませんでした。
シングルの五倍もする値段のLPを買わせるには、LPを買わない限り聞くことのできない曲を作ればいい、みんな疑問もなくそう思って生涯を続けてきたんですね。
でも、しかし、
『サージェントペパーズ・‥』とか『ジギースターダスト』のような組曲形式のレコードは別として、なにも水増しされたようなアルバムを購入する必要はなかったのではないか?

音楽がデジタルデータ化された今日、私は、アルバムを一曲目から最後の曲まで通して聴くことはほぼなくなりました。
それどころか、youtubeで聴くことが増えた今日では、一曲を冒頭から末尾まで通して聴くことさえ少なくなりました。

アクセスと早送り巻き戻しが効率化された故なのですが、
それらが効率化されたことにより、楽曲に対して畏敬の念を抱かなくなってしまったし、タダ同然で音楽が手に入るので、高い金を払って音楽を買っていた時と比べると、音楽に畏敬の念を抱かなくなってしまったというのもあります。

また、youtube古今東西の音楽に瞬時にアクセスできるために、「この音楽は以前の…のパクリだ」ということは簡単にわかるようになりましたし、神格化されているような大物ミュージシャンの過去映像を見ることで偶像のメッキが剥がれてしまい、尊敬できなくなってきているというのもあります。


音楽のデジタル化は、音楽の入手法を店頭でCDを手にとって買うスタイルから、ネットで有料なり非合法な無料のやり方でダウンロードする、もしくは音質にこだわらないならyoutubeから引っこ抜くというものに変えてしまいましたが、
それによって、私たちの音楽との接し方というのが、以前はありがたい説教を聞くような形だったのが、つまみ食いの聴き散らしようなものに変えてしまいました。


こうなってしまうと、本来捨て曲で水増しされたCDアルバムに何の意味があるのだろう?と今までの40年以上の伝統に疑問を持つ人たちが出てくるのは当たり前だと思います。
一目にはつかない、LPの片隅で、まるで打ち明けばなしをするかのような実験的な作品も作られることはなくなってしまい、それどころか音楽の制作自体がさきぼそってきてしまっています。


そんななかでperfumeですが、彼女たちは、今までの意味のアルバム制作は放棄してしまっており、既に有名になった曲をまとめたものとしてのアルバムの販売という、ビートルズ以前の形態に先祖返りしてしまいました。

日本歌謡曲市場の代表的アイドルユニット、キャンディーズでも、一枚のLPには2曲のヒット曲しか収録されておりません。

これだけでも、perfumeというのは、驚かさせてくれる存在なのですが、

さらに驚くべきことというのは、
CMタイアップ曲です。
一つ目に驚くべきことは、彼女たちの楽曲の多くがCMに使用されており、これはperfumeの曲のクオリティーの高さを示していると言って間違いではないでしょうけれども、
他のミュージシャンは一体何をやっているのだろう?perfumeがこんだけCMに流れているということは、ほかのミュージシャンの仕事を奪う結果にはなっていないだろうか?という気がするのですが、
私は、テレビをほぼ見ない人間なので、これだけperfumeの歌がCMで流れていることを全く知らなかったのですね。

それはいいとしまして、
perfumeのCMでの戦略の驚くべきところは、彼女たちはキリンチューハイ氷結と専属契約を結んでおり、チューハイの新製品の登場に合わせて、新曲を発表しないといけないという事情があるようです。
それ自体は、それほど異常なことではないのですが、
私にとって異常に見えることは、歌の歌詞が商品の宣伝文句でで構成されている点です。

レーザービームの歌詞
「ストレイト ドキドキする。視線はまるでレーザービーム。心をシュワりと突き刺すの。虹色のラブビーム。実る果実が水を弾いて、キラキラしてる光に似てる」

焼酎を炭酸で割ったものに果物のエキスを混ぜた商品なのですが、
「ストレートで飲んだら胸が苦しいから、炭酸で割りました。微妙な色付きの果物エキスが炭酸の泡に揺れてレーザービーム」
というあまりにもフザケた歌詞であることに気がついて驚いてしまいましたが、

これは、気がついてみるまでは、なにひとつ不自然ではありませんでした。

作詞作曲している中田ヤスタカは歌詞の意味にこだわる人ではありませんし、歌っているperfumeの声は電気的に歪められていますから、何言っているのかよく聞き取れないという状況があります。

つまり、歌詞ってなんでもいい、歌詞は自己表現の手段ではないと割り切ると、本当に商品宣伝の為の楽曲が出来上がってしまうということになります。


glitterの歌詞
「一日の楽しみは、誰にも止められないよ。今日も明日も。白い箱開けると、いつもの棚にある、キラリ光る、そうさglitter」

寝酒に冷蔵庫でキンキンに冷やしたチューハイを飲むことを楽しみにしていることを表したらしい歌詞なんですが、

CMタイアップの事情を知るまでは、まさかまさかそんな歌詞だとは思ってもみなかったです。
では、それまでは、何を思ってこの歌を聴いていたのかというと、
「なんかよくわかんないけど、いい曲だな」と思って聴いていたのでして、

実は、ポップミュージックの歌詞とそれを聴く人の関わり合いというのは、そんなもんで十分なのですね。

外国語の歌聞いていて、歌詞なんてほとんどわかっていないですもの。日本語の歌だから歌詞全部聞き取れないとダメとか歌詞のいみわかんないとダメってことは絶対ないと思うんですよね。

もっとひどい話だと、坂本九の『上を向いて歩こう』なんてアメリカに持っていったら『スキヤキ』に題名変わっちゃったんですわ。
アメリカ人は、あのイントロのピアノの音聞いて、俎板でねぎ刻む音でも想像していたんでしょうか?


表現者
「誤解されているのは辛い、本当の自分を分かって欲しい」という欲求は理解できないでもないんですが、本当のことを言うと、そういうことはどうでもいいことだったのだ、とperfumeの音楽は私に教えてくれます。

ミュージシャンの持つ「わかってほしい、誤解されるのは辛い」という言い分は、所詮ミュージシャン本人の持つ意識の部分の自己イメージに過ぎないのでして、
音楽のコミュニケーションはもっと無意識的部分にまで降りたところでなされるのですから、個人のエゴとか自我は頬っておけばいいんです。

楽曲は専属の作曲家からの一方的な提供。歌はほとんど技術なしでしゃべるように歌う。さらにそれを電気的に処理され、誰の声かわからなくなる。さらに三人の声が重なる時はユニゾン
ステージのパフォーマンスでは、ダンスを優先するためにほとんど口パク。

perfumeの音楽活動というのは完全に近代自我の一貫性が崩れた世界であるわけです。


ロックンロールは非常に野蛮なもので、その誕生当初はまっとうな大人から有害だと考えられるようなものだったのですが、
確かに、反理性的で悪魔崇拝てきな乱痴気騒ぎ的であるという点では、反文明的であるといえるのかもしれませんが、

「わたしが、わたしが、わたしが、・‥」としつこいまでに自我を主張する点においては、実に西洋的なものであったと言わざるを得ません。

自我の一貫性に引きずられるゆえに、「これは私らしくない、私的にはこういう時はこういうポーズを取らないといけない」そういう思考パターンに陥る、一般人でもそういう人はいますが、

ミュージシャンで、このような自己イメージの奴隷になった人たちはたくさんいます。ひどい場合は、自分が不幸であるという自己イメージに引きずられる形で、自殺してしまう人もいますし、そのスターのイメージに引きずられるように後追い自殺してしまった無名の人たちも大勢います。


それと比べると、perfumeは絶対に不幸自慢はしません。下積み時代の苦労話をネタにして笑いを取ろうとはしますが、それらはあくまでも楽しい話で悲しい話ではないのですね。

ステージの上でのperfumeは、ピンヒールの中の足の皮がすりむけているかもしれませんけれども、どう間違っても不幸には見えませんし、
それに観客たちも、とても幸せそうに見えます。
ここには、不幸自慢はありませんし、不幸であることを互いに確認することで人間関係をはじめようという、不毛なコミュニケーションのパターンが見られません。

ちなみに、ジョンレノンは、不幸自慢をやりまくったせいで、不幸な人間を呼び寄せてしまい、最後は撃ち殺されました。
デビッドボウイは、不幸が介在するスターとファンの関係をネタにしたことで、以後20年くらい「早く死ね」とファンから呪詛の言葉を浴びせ続けられました。


今となって考えてみると、なんちゅう、不毛なことをやってきたのだろうと、私は思わざるを得ません。不幸、痛み、他者との差異
をコミュニケーションの核にしてきた従来のポップミュージックというのは恐ろしく不毛なものでした。

それは、
Perfumeのライブには、ただ楽しみに来た人たちしかいないように見えるのとは大きな違いです。






ジョニミッチェルはカナダ出身のミュージシャンで、作詞作曲演奏プラスジャケットデザインまでおこなう人です。

彼女の代表曲『青春の光と影』とそのジャケットですが、

目がロンパっている。花を持っている左手のデッサンが狂っている。
正直、この程度の油絵だったら武蔵美多摩美の入試に合格するのも無理ではないかと思います。

その程度の技術の絵なのですが、いや、その程度の絵である故に、この燃えるような夕焼けというのは、作者の空想ではなく、本当にカナダにいくと毎日目にできる光景なのだろうなと思わされ、その点では好ましいと言えますけれども、

それでも、
このような下手な絵をジャケットにして、自分の音楽とその周辺を彼女自身のエゴで塗り固めたことに、そんなに大した意味があったのだろうか?とperfumeを聞いてしまった私は、疑問に思うようになりました。

たかだか、音楽を塩化ビニールやプラスティックに刻んで店頭販売するという商売方式が崩れただけでなくなってしまうような音楽に、歴史的に価値があったのだろうか?
今 私は、本気でそう思っておりまして、
そう思わせてくれたperfumeという存在は、むちゃくちゃラジカルなものであるのは間違いありません。

perfumeが放つ輝きというのは、彼女たちの背後で何十年も続いてきたポップミュージックの歴史が闇に吸い込まれていく状況を背景にしたものである、と私は考えています。

 次の世紀もPerfume

小幡績

1967年、千葉県生まれ

東京学芸大学附属高等学校卒業
2年浪人
1992年、東京大学経済学部主席卒業、大蔵省入省、1999年退職
2000年、IMFサマーインターン
2001年、ハーバード大学経済学博士(Ph.D.
2001年-2003年、一橋大学経済研究所専任講師
2003年 - 現在 慶應義塾大学大学院経営管理研究科(慶應ビジネススクール)准教授

凄まじい経歴の持ち主ですが、彼がPerfumeについて言ったことが
「今年はPerfume   来年もPerfume    次の世紀もPerfume

隣のアナウンサー、笑っていますが、
小幡績氏の言っていることは、全部正しいです。むしろ、テレビ用にディープな話端折っているようで物足りない。


西洋というのは、キリスト教社会であり、近世以降キリスト教の破綻が目につくようになったらヒューマニズムという人間の理性万能主義に傾いていった社会です。
ヒューマニズムというと、「人の命を大切にしょう」という考え方だと日本では誤解されていますが(そういう側面は確かにありますけれども)、人間主義と直訳してみると、「神の代わりに人間の理屈が、人間の理屈が、人間の理屈が・‥」というものすごくクドい思想だということが伝わると思います。

もともとキリスト教自体、神の似姿として人間を作った、というくらいでして、だから、人間以外の動物は食べても大丈夫、といいますけれど、
その夜郎自大な思想の末裔がシーシェパード捕鯨反対だったりします。
彼らは一見エコロジックな団体に見えるかもしれませんが、実のところ、イルカやクジラは人間に近いから食べてはダメ、クジラやイルカを食べることをやめて牛を食いましょう、という人たちです。

こういうことを行っている人たちが数十年前までは、「黒人は人間の内には入らない」とかいっていたわけです。その後ろめたさの隠蔽として反捕鯨があるのだろうと私は見ています。

日本人にも差別心はもちろんあるでしょうが、それでも、さすがに、「黒人は動物なみ」とかそういう話にはならんでしょう。
「あいつらへん」とか「あいつらくさい」みたいないじめレベルの差別の発展系はありえたかもしれませんが、「黒人は人間のカテゴリーには入らない」と明言するような精神は持ち合わせていない、いなかったと私は考えています。
やなせたかしの「みみずだっておけらだってあめんぼだって・・・」という歌がすんなり受け入れられてしまうことを考えてみましても、
「エチオピア人は文明人とはみなせない」とムッソリーニが明言して、それで沙汰止みになった西欧人とは日本人の考え方は伝統的に滋賀うことはわかると思います。


「イルカやクジラは知的で人間とコミュニケーションを取れる生き物。彼らを食べるのは可哀想。どうして日本人はこんなに可愛い動物を食べるんでしょう?牛を食べればいいのに」

この典型的なシーシェパードの言いぐさ、腹立ちません?



ひとつの理由としては、豚も牛も言葉を話すことは出来ないかもしれませんが、ちゃんと生きており、彼らの行動パターン思考パターンは、意識と呼んでいいのかどうか曖昧ですけれども、人間にかなりの部分が読み取れます。
どんな動物でも、彼らの行動パターンを解析すると、言語以外の方法でそれなりのコミュニケーションをとることは可能なのですね。
匂いを使い、温度を使い、形や色を使い、言語未満の音声を使うことで、私たちは、彼らと何らかのコミュニケーションをとることができます。

イルカやクジラが知的だから人間と共存することができるが、牛豚は下等だから人間の食い物、その発想どこから湧いてきたんですか?ということです。
牧場にいって見りゃ、誰だってわかるだろうに。どこの牛や豚が好き好んで切り刻まれて食品になりたいってんですか?ってことです。


真面目な話、ベジタリアンに「イルカとクジラ食べるのはやめて!」と言われる分にはまだ理解できますが、「どうして日本人はイルカやクジラのような知的でかわいい動物を食べるの?牛や豚を食べればいいのに」と言われると、西洋人の心の病というのは歴史的に根深いものだなと思わされます。


私は海沿いの町に住んでいますが、クジラやイルカを食べることが日本の伝統だと思えるような地域ではありません。近所の港に上がるのはアジとか鯖みたいなものばかりです。
そして子供の頃に給食で食わされたクジラの肉の味を考えるに、あんな不味いもんを食うことが日本の食文化の伝統と言い張るような連中に対してもウンザリです。

私が、このような状況の中で実践していることというのは、

週に一日か二日しか肉を食べない

一応、肉は食います。それは何故かというと、人間が原人からクロマニヨンに進化した時期には、肉食が開始され、過剰なカロリーを脳で消費できるという条件が人間の進化を促した、という説を聞いたことがあるからです。確かに肉食うと妙に元気が出るもんです。
もし私たちがみな野菜だけで生きているんだったら、数世紀後には私たちはもう一度霊長類のお仲間レベルに退化するかもしれません。
それ以外にも、人類の歴史を鑑みるに、食料の確保というのは、とても難しい問題でした。
ある場所では、植物性の食料は豊富ですが自然災害が多い。
ある場所、例えば砂漠ですが、植物性の食料はゼロですから、家畜を飼うしか食料自給の方法がない。

だから、ベジタリアンが、自分たちの方法を考えの異なる人たちに強要することは間違っています。人間は日々の糧を得るにとんでもない努力をしてきた数万年の歴史があるのですから。
あなたたちの思想は、たまたま植物性の食料を供給できる土地に根ざしたものに過ぎないだろう?
そういうことです。

いや、意地の悪い本音を言わせていただくなら、
西欧は食物を植物から摂取できるほどに身なりのいい土地ではありません。
ベジタリアンという思想自体、インドからいただいたものに過ぎないではありませんか。
本来、ベジタリアンを真面目に実行していたら西欧社会なんてローマ帝国以前に消滅している存在です。
今まで散々黒人や植民地の人間を動物そして扱ってきた後ろめたさを、根無し草的にインドからいただいてきた思想を使って、動物愛護の美名の下に日本や中国に対して自分たちの暗い過去を投影している、非生産的な態度にしか思われません。


野菜や穀物のならない地域もあるのです。
そういう個々の風土差を無視して、ベジタリアンサイコーとか言っている人たちは、私から見ると、歴史についてもっと学べとしか思うことができません。

そして、反捕鯨を唱えるベジタリアンがいたらどうなのか?ということですが、
「あなたたちは、食物連鎖で下位の動物を食って生きる鷹や鷲を殺して回るのですか?」ということです。

「神はいない、だから人間の理性サイコー、人間の理性サイコー、…」
西欧でそう思っている人は、さすがにトップレベルの人にはいないでしょう。
こういうシーシェパードレベルの人等のは中途半端なレベルのひとだけです。


あなたたちの思想というのは、人間の理性サイコーという、レベルの低いものでありまして、
そりゃ一見整合性は取れているかもしれませんけれども、
前提となる人間の理性サイコーって部分は、どうなんですか?ということです。
人間の理性サイコー、人間と近い動物は人間並み、だから魚は肥料でOK、こういう思想のキモさというのは、
前提となる人間の理性サイコー、という点です。

だったら理性的な考えを放棄したらいいのかということになりますが、
私たちは、常に前提が崩壊する「もしか」の時を想定に入れて思考を重ね行動すべきではないのだろうか?


つづく