触れる指先が切れそうだ

『檸檬のころ』という小説があって、それを映画にしたものがあって、そこに榮倉奈々谷村美月が出演しているんですが、

わたし的には、この映画から非常に多くのことを学ばせてもらいました。
それはこの映画が、非常に優れているからというよりも、私の人生において、ご縁があったということなんですが。


音楽にはどんな映像を合わせるといいのかがこの映画から分かります。




好きな相手に実は恋人がいて、それを知った時に悲しくて、
でも、その片思いの気持を素直に歌詞にしたら、それを彼が学園祭で歌ってくれて、観客がみんな喜んでくれた、
そういう場面ですが、

  


『檸檬のころ』の監督はPVなどを撮ってた人で、そのせいもあってか、このライブのシーンはこなれた編集がなされているのですが、

なるほどな、と思わされることが一つ。

ある映画研究家が語ってらっしゃった事なんですが、

映像にどんなBGMをつけても合うものらしい。たとえ画面と音楽がずれていようとも頭の中で補正して合っているように感じるのが人間というもの、
だそうです。

PVの場合、カットのつなぎと音楽の拍の間に強い相関関係があるものがMTV初期の作品にはかなりあり、なぜかそれらは安っぽく感じられました。

映画の場合は、BGMと画面の構成にそんなに強い相関関係がなく、むしろ微妙にずれている事が一つの映画的リズムを作り出しているわけでして、
それが、画面と音楽のリズムを単純に統一させられてしまうと、逆に違和感を感じてしまうのです。


この、『檸檬のころ』は、そういう失敗やらかしている映画で、いわば反面教師なのですが、でもそれでも、十分に愛らしい映画です。




いてもたってもいられなくなって、猛然と走り出す谷村美月。いかにも運動神経のよさそうな走りっぷりに感心。
しかし、
よくよく見ると分かることですが、このダッシュの速度、音楽のリズムと別に合っていません。音楽よりも速いテンポで走っており、むしろ、音楽の疾走感とこの全力疾走感には強い相関関係が有るように感じられます。


廊下を全力で時速三十キロくらいで走られると、マジで危険なんですけれども、
別にそんなわけではないでしょうが、続くカットでは、谷村美月、相当走る速度を落としています。で、よくよく見てみると、彼女の肩の動きが、音楽のリズムときっちりあっているんですね。
音楽のテンポにあわせて走る速度設定して撮影しているわけです。

で、どうなのかというと、最初のダッシュのシーンの全力疾走の感じの方が、音楽と合っているように感じられるんですよ、私には。
それはなんでかというと、BGMが表しているのは、登場人物もしくは観客の心理の内面でして、
BGMがあらわしているのは、登場人物の体の動きのリズムではなく、登場人物の鼓動のリズムだからなのでしょう。

BGMの激しさは、心理の激しさと一致すべきものであり、体の動きと合わせてしまうと、映画的には安っぽく見えて笑ってしまいます。



階段を何段か抜かして踊場にターンと飛び降りる時の足音が、ドラムの溜めのリズムと重なっています。


体育館のカーテンをバサっと開ける音がやはりドラムの溜めのところと重なります。
なんど見ても、このカーテンを開けるシーンは私には気恥ずかしい。
この気恥ずかしさがどこから来るのかよく分からないのだけれども、気恥ずかしい。

監督だけでなく、谷村美月も何本もPVで演技した事あるから、こういうの慣れているんでしょうけれども、
私は、見ていて気恥ずかしい。



そして、当たり前といえば当たり前のことに気づかされるのですが、結局一番音楽に合う画像というのは、その音楽を演奏している人を映したものということです。




谷村美月はロッキンオンに就職することを夢想する全然冴えない高校生の役で、その彼女が憧れのバンドの男の子のために書いた詞がこれ。
「届かない指がちぎれそうだ。この手に、つかめなくてもいい」

この類の詞って、どこかに元ネタあるんでしょうか?どなたか知っていらっしゃる方教えてくださいませ。

「触れる指先が切れそうだ」
かしゆかのユビサキサックが赤色ってのが、血まみれの指先を表現していて歌詞とシンクロしてます。

ポップスターってこういうもんでしょ。人からプライヴァシー視姦されて、誤解されて、カスみたいなやつから鼻で嘲笑されて、その代価に金稼いで、みたいな気持ちになると、

それとなく自分の内面が血まみれであることを表現したくて仕方がなくなるって。

このかしゆか、かっこいいですね。このPVの主役ですわさ。