デヴィッド・ボウイの追悼企画
フレディー・マーキュリーが死んで半年くらい経ってから、追悼コンサートが開かれました。その収益はすべてエイズ治療の研究に充てられました。
デヴィッド・ボウイの場合、収益は何に充てられるのかわかりません。もしかすると子供関係の慈善事業に回されるのかもしれません。
それはともかく、デヴィッド・ボウイの追悼企画となると、ありとあらゆるスターが参加希望するでしょうから、そういうスターのスケジュール調整のためにも結構時間がかかると思われます。
個人個人で、彼の死を悼んでツイートしたり、彼の歌を歌っている人がいっぱいいるのですが、
ボン・ジョビが『ヒーローズ』を歌う。
この曲、デヴィッド・ボウイ的には一番大事にしてきた曲ですから、
追悼ライブ企画では、ボン・ジョビ程度の格では歌うことままならないでしょう。
誰が歌うんでしょうね?
マドンナがデヴィッド・ボウイ大好きだったってのは、今になって知ったのですが、
デヴィッド・ボウイをオカマのカッコしてたキモイ人という風に思ってた人も多いでしょうが、
人によってはボウイをジェンダー方面のリベラリストととらえて神格化していたようです。
しかし、いくらリハ無しのぶっつけ本番での追悼演目とはいえ、
マドンナってどうしようもないくらい歌下手、そして踊りも全然ダメ。はっきり言ってゴミです。松田聖子以下。
なんで生き残ってきたのか全く分からない。
正直な話、ベビメタでこの曲聞いてみたいです。便乗と呼ばれようとあざといと言われようと、今度ロンドン行ったらボウイの曲やってほしいです。
なにやったところで、このマドンナよりはいいもんができるにきまってます。
デヴィッド・ボウイが二回目のアメリカツアーで、ラジオ局の人から、ブルースプリングスティーンに会いたいなら会わせてやると言われ、
ご厚意に甘えて会ったそうです。
ブルースプリングスティーン はボウイのことを、キモいオカマと思ったらしく、
ほとんど何も話さなかったとか。
でも、『Stationtostation』の録音には、彼のバックバンドからピアノ奏者のロイ・ビタンが参加しています。
この演奏聞く限りでは、スプリングスティーンは追悼コンサートに来なくてもいいな、という感じ。
一般人が自発的に集まって歌ってるのをyoutubeで見るほうが、ずっと楽しかったりします。
いくらプロとはいえ、いきなりリハなしでボウイの曲歌えと言われても、なかなかできないものらしいです。
いやむしろ、プロであるゆえに、自分のカラー捨てきれなくて、それゆえにうまくボウイの曲が歌えないようです。
おそらく、追悼コンサートに参加して、重要な曲を歌うことになるだろうエルトン・ジョンですが、
彼の代表曲の一つ『ロケット・マン』は『スペース・オディティ』を意識した曲のようで、
ピアノのイントロに『スペース・オディティ』のメロディを交えつつ、『ロケット・マン』を歌うことでボウイへの追悼にしてる。
自分の曲歌うことで、他人の追悼ができるって強いですよ。
ちなみに、フレディー・マーキュリー追悼企画では、
ボウイは、クィーンとの共作の『アンダー・プレッシャー』を歌いました。
ここでフレディーの代役はアニー・レノックス。
Queen & Annie Lennox & David Bowie - Under Pressure - HD
「神様、私たちにデヴィッド・ボウイを与えてくださってありがとう」
彼女、ガチのボウイ・ファンらしいです。
ぜひとも、追悼コンサートでもこの曲歌ってほしいです。
でも、誰がデヴィッド・ボウイの代役やったらいいんでしょうか?
あと、こういうのもいいですね。
ユトレヒトの教会の鐘が奏でる『スペース・オディティ』
追悼コンサートでは、だれがこの曲歌うんでしょう?
エルトン・ジョンでしょうか?
私としては、ボブ・ディランに歌ってほしいとこです。
『ライフ・オン・マース』
誰が追悼コンサートで歌うんでしょう?
それこそレディーガガにロケットの中から歌ってほしいとこです。
ネパールの生き神さま おんなのこは神
インドとチベットの間に、ネパールという細長い国があります。
そこには、クマリという生き神さまがいます。
生き神さまというと、チベットのダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりというのがチベット世界のお約束事ですが、
クマリに特徴的なのは、
クマリの資格は、初潮前の女の子に限られるという点です。
カトマンズの盆地から複数の容貌優れた幼女の候補者が選ばれ、その中から頭よさそうで家庭環境も優れた子が、クマリに選ばれます。
選ばれたクマリは王宮のそばのレンガの家に家族や身の回りの世話をする人たちと一緒に幽閉状態の生活を何年も送ります。
その間、観光客の拝謁に応えたり、祭祀で重要な役割を果たしたりします。
一度選ばれると死ぬまで生き神さまの地位を離れられないダライ・ラマと異なり、
クマリの場合は、不浄なる血を流すと神聖な力を失うとされ、新しい代のクマリへ譲位させられます。
流血とはいっても、多少のすり傷切り傷程度では見てみないふりをされるのではないでしょうか。
おそらく思春期の初潮が契機で代替わりするのが常なのでしょう。
現在のクマリ、上の写真の女の子は今11歳で、もうすぐ退位されるはずです。
ネパールでは今現在、王室が廃止されており、
クマリの伝統も途絶えるかもしれないと聞いております。
でも、今でも政府役人がもろもろの吉凶をクマリの態度で占うのだとか。
今回、何言いたいのかというと、
このクマリの習俗って、
日本のアイドルの在り方とよく似てないだろうか?
少なくとも私は、ずっと以前にNHKのテレビでクマリのことを見て以来、そう思ってきました。
文化人類学かじったような人が世の中をわかったような目つきで眺めて、そんなふうに思うのは、よくあることかもしれませんが、
このベビーメタルのメイクと衣装を見る限り、アイドルを作り出している側の人たちにも同じ考えの人がいるらしいことが分かります。
日本のアイドルってマスメディアの発達した社会での発明品というよりは、土俗的な文化に根っこのたどれるものなのでしょう。
ベビーメタルの場合は、ユイモアに関してはデビューした時の年齢がクマリ並みに幼いので、特にネパールの生き神様のように見えるのかもしれません。
『STAR TRAIN』 鉄道ソングス
音楽って人間の感情に寄り添う血の通ったもの、と考える人も多いかと思います。
でもテクノ系の人だったら、音楽ってむっちゃ機械的なもんやと考えているかもしれません。
わたしに関して言いますと、人間の中でも感情が一番機械的なんじゃないかという仮説を持っています。
だって、好き&嫌いの二者選択って、
コンピューターの二進法とそっくりじゃないですか。
私から見ると、感情的な人間って、機械とかプログラムのように見えるのですよ。
まあ、それはいいとしまして、
汽車って、その動作が音楽的です。「動く音楽」と言っていいかもしれません。
巡行速度が安定したら、汽車の車輪の動きってめちゃくちゃ音楽に置き換えやすいです。
というか、汽車の音自体が、既に一種の音楽なのかもしれません。
二拍子が歩くリズム、三拍子が馬に乗るリズム、四拍子が駆け足のリズム、
リズムって人間の動きとか心臓の鼓動とかかわっているものですから、
汽車とか車が世に出るまでは、八拍子とか十六拍子ってあまりこの世の中に必要とされてなかったっぽいです。
しかも車と比べると、汽車・電車って信号で止まらないですから、BPM安定していて音楽的。
だからでしょうか、「この曲って汽車・電車を表してるように聞こえる」って割と簡単に作曲できるのかもしれません。
銀河鉄道の夜 ファイナルテーマ Gingatetsudou no Yoru - Final Theme
『風の谷のナウシカ』のBGMってもともと細野晴臣が担当するはずだったそうですが、あの木梨憲武の嫁の安田成美が歌う80年代アイドルソングまんまのクソ主題歌に宮崎駿が難色を示し、その結果、久石譲に交代とあいなりました。
まともに音程取れない安田成美に、クソ曲あてがった細野晴臣。
こういう事実がなかったとしたら久石譲って世に出るきっかけがなかったのかもしれないと考えると、ちょっとゾクゾクします。
でも、細野晴臣が本気出したらどうなるかってのは、『ナウシカ』の翌年の『銀河鉄道の夜』のサントラを聞けばよく分かります。
これを、細野晴臣の『銀河鉄道の夜』と比べるのは、残酷かもしれません。
ちなみに『線路は続くよどこまでも』の原曲。
あまり汽車の様子を描写してるような音に思えませんが、
もともとこの曲って、汽車に乗ってる人目線の歌ではなく、
大陸横断鉄道の建設作業員の目線の労働歌です。
それを、NHKの『みんなのうた』のために日本語訳したそうで、
大方の日本人の思っているよりも、日本人にとっては新しい歌です。
ちなみに、この曲の詞の日本語訳の原形は『できるかな』のノッポさんがやったそうです。
汽車・電車と言えば、この曲思い浮かべる年配者もしくはインテリがいるかもしれません。
『A列車で行こう』
この曲って、ニューヨークの地下鉄のことを歌ったもので、
「黒人居住区のハーレムに行って本場のジャズを聴きましょう」って内容で、
いわゆる鉄道ソングにありがちな車輪のリズムとか汽笛のリズムがありません。
汽車・電車の音というよりかは、ライブハウスの門をくぐる前から心はすでにジャズにどっぷり、そんな曲でしょうか。
ちなみにこちらは、二週間前に亡くなったデヴィッド・ボウイの『Stationtostation』
デヴィッドボウイは飛行機乗るのが嫌いだったそうで、1973年の初来日公演では船に乗って日本に来ました。そしてシベリア鉄道でイギリスに帰りました。
恐らくその時の、車窓からの共産圏の光景がこの曲の基になっているのだと思われます。
デヴィッド・ボウイはアルバムごとに、大まかな物語を作り、その物語の主人公のコスプレをするという芸風でした。
この『Stationtostation』の主人公の名はシン・ホワイト・デューク、痩せた白い公爵ってことですが、
曲の題名が題名だけに、デューク・エリントン意識したものなのかもしれません。
『Stationtostation』も曲の最初の方は汽車の音を模した感じなのですが、後半はファンク調であり、なんか『A列車で行こう』のオマージュのように感じられないでもありません。
こちらは、デヴィッド・ボウイの大ファンだったローティーンのジャンキーを映画化した『クリスティーネ・F』の『ヒーローズ』
自分は、東西冷戦期のベルリンについては全然知りません。
しかし、デヴィッド・ボウイが東西冷戦期のベルリンが気に入って数年間住んでいたということから、
もの好きにも、アジアにおける資本主義と共産主義の境目の深圳・香港の境目に何度も行きました。
深圳と香港を電車で行き来しながら、
ベルリンに住んでいたデヴィッド・ボウイに思いをはせたりしましたが、
『ヒーローズ』ってベルリンの壁についての歌で、電車・汽車と関係ないはずなんですが、『Stationtostation』ばりに蒸気機関車を模したような音がかぶせられています。
『クリスティーネ・F』の映像に重ねられると、
少年少女たちの姿は、共産圏の飛び地から自由に空を飛んで出入りするピーターパンか何かのよう。
そして、そんなピーターパンとウェンディたちの乗り物は、空を飛ぶ鉄道なのかもしれません。
こちらは、The King ことエルヴィス・プレスリーの『ミステリー・トレイン』
アメリカの鉄道というと、数キロに及ぶ貨車を引きずって延々と進む、そんなイメージがあります。
この曲では車輪の動きや煙突から立ち上る煙ではなく、
鉄路の上を走るときの「ガッタンゴットン」の音を模写したようなリズムが延々と繰り返されます。
そういえば、デヴィッド・ボウイがドイツのベルリンにしばらく住んでいましたが、
エルヴィスも軍役についてドイツのフライドベルグに駐留していました。
こちらのジャズの名曲に関しては、トレインがコルトレーンとダジャレになっているのですが、
夜汽車、という感じでしょうか。モダンジャズですからだらだらと長いです。
アメリカの汽車の旅も気長にかまえないといけないのでしょう。
一方、我が国日本って、
「狭い日本そんなに急いでどこに行く」って言い方があります。
そんでも知床から鹿児島までの移動距離ってアメリカ横断するくらいの距離があるのですが、
それでも、なんか日本人には、エルヴィスやコルトレーンの曲のような延々と続くリズムが鉄道のイメージにどうもそぐわない、こう思うのは私だけでしょうか?
荒野に鉄路敷いたことで初めて開発の進んだアメリカと違って、日本って鉄道来る前からすでに多くの城下町を抱え開発が進んでいましたから、
鉄道に対して文明の利器としての愛おしさは感じるけど、こちんまりしたイメージ持っているというか、なんというか、
中央線って言っても東京駅から八王子までの結構な距離がありますけど、
私も以前中央線の線路の側にアパート借りてたんですが、
勝手にこの曲の主人公の彼女「キミ」のすんでいる町って国立あたり金持ちっぽいところを想定していました。
それで主人公の男の方はかつては文士がいたような中野とか高円寺とか阿佐ヶ谷あたりの狭い風呂無しのアパートに住んでる。
中央線って、三鷹までは高架線で、それから先は地上を走る、はずだったと思うのですが、
大して高い建物もない中央線沿線を高架線を走る列車の窓から眺めていると、銀河鉄道にでも乗っているような妄想がよく襲来したもんです。
この曲に関しては、電車って汽車や蒸気機関車と違ってあんまり大きな物音立てないですから、音の模写しにくいってのがありますが、恐らくこのピアノの音、電車の音と主人公の男の気持ちというかBPMをごっちゃに表現しているのだと思われます。
そういえば、矢野顕子は自分の娘をデヴィッド・ボウイに肩車してもらったことの思い出を追悼ツイッターしてました。
デヴィッド・ボウイには、この手の子供好きエピソードがとても多いです。
『STAR TRAIN』が『リラックス…』よりもCD売り上げがよかったのは、以上述べてきたような鉄道ソングが広く受け入れられてきた歴史によるものだと思われます。
中田ヤスタカにしても、何にもないゼロから『STAR TRAIN』作ったわけでなく、既存の曲が作った鉄道ソングのイメージに自分なりの切り口を見つけただけなのでしょうし、
リスナーの側としても、既存の鉄道ソングとの比較から『STAR TRAIN』の印象を得ているという側面はあるはずです。
んで、この曲どうなのかというと、
まあ、そこそこいいんだけど、
傑作と呼ぶのは無理ですね。
歌番組で生歌披露するってんならともかく、そうでないなら、あんまり存在意味を感じません。
誰でも一度は感想文書かされたであろう『羅生門』について
その中身って同じく芥川の『藪の中』の方で、
『羅生門』の方って、題名の拝借、それに語り部のいる場所にすぎませんでした。
人って、みんな自分に都合のいいように世の中見てて、みんな砂粒のようにバラバラ。
「みんな自分に都合のいいように世の中見てる」ってことに関して言うなら、『藪の中』の方はよくできてるけど、『羅生門』の方は実のところそういう論理で成り立ってる短編ではいないらしいです。
「成程な、
芥川龍之介、英文科卒ですから、その文章の書き方、やたらと読点が多いです。
私たちは小学校で、「読点は一秒、句読点は三秒、読むのを休みましょう」とならうんですが、
芥川式の読点は、それとは全然違う理屈でうたれています。
英語の単語の分かち書きのスタイル+英文のコンマの箇所に全部読点入れてたら、そりゃ、読点の数は増えるんですよね。
で、ほんとのこというと、「読点は一秒、句読点は三秒、読むのを休みましょう」的な小学校の教え方って、日本人の知的レベルの足引っ張っているはずです。
話ずれましたが、
『羅生門』の「みんな悪いことしてるんだからわしだって…」的な論理ですが、
・蛇を魚と偽って売っていたということですが、
これ、別に被害者いない訳でしょ? 逆にみんな美味い美味いって喜んでいた。
しかも飢饉が蔓延してる時代に、偽装とはいえ食料を都に供給していたんでしょ?
むしろ称賛に価すると思われます。
私も中国で蛇何回か食べましたが、普通に食えます。この場合ですと日干しして、それを焼くか煮るかして食べるらしいですから寄生虫の被害もないでしょう。
でも、魚の方がうまいですけどね。
・死人の髪を抜くということですが、
これこそ、どこにも被害者いないわけでしょ? 打ち捨てられた死体に意識があるってのならともかく。
べつにいいじゃない、と私はおもいます。
それに対して、下人の理屈は、
「では、
って、明らかに被害者がいる訳で、全然レベルが違う話じゃないですか。
大体、餓死したくないんだったら、どこかで食料奪って来るのが手っ取り早い訳で、
老婆の汚い着物盗んでも、それ市場で換金して食料と取り換えるとか二度手間三度手間です。
つまり、下人のやったことって単なる弱い者いじめです。
蛇の干し肉売った女の場合、上流階級欺くことで利益得たのですから一種の階級闘争と言えなくもありません。下人と比べてはるかに志が高くありませんか?
さらに言うと、
下人にとって選択すべき路は、本来泥棒になるか飢え死にするかの二つだったはずなのに、
老婆は、死人の髪抜いてズラを作って売ることと蛇の肉を干魚と称して売ることの二つのビジネスモデルを提示してくれているのです。
ここで下人の選択肢は四つに増えているはずなのに、彼はそのことに気が付かず恩知らずにも追いはぎやってるんですよね。
もし読者が善良な一市民であり、本気で登場人物の立場で物語読んだとしたら、必ずこの選択肢の問題に行き当たるはずです。
「俺だったら、まずズラの生産工程とその利益について老婆に根掘り葉掘り聞いてみるわ」
つまり、『羅生門』って、中学校や高校では、
「自分勝手な理屈言ってたら世の中まとまらないでしょ」的な教訓話として利用されているんですけど、
よく読んでみると、下人の言ってることだけ屁理屈でおかしいわけです。
芥川龍之介がどこまでこのことわかって書いてたのか怪しいのですが、
この短編の主眼って、どうもここではないらしいんですよね。
「下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。」
ここまで下人の論理を突き放してしまうと、「ひどく投げやりな論理の短編だなぁ」と思わざるを得ないとこです。
本当は芥川龍之介も、死人の髪抜くことの善悪に対しては何も分かっていないっぽいです。
最初の一行目に
「一人の
とありますけど、そのしばらく後で
「 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず
と作者自ら突っ込みいれてる。
つまり、下人って、最初から泥棒になるきっかけ待ってただけなんですよね。
そのきっかけを待っているのを、雨が止むのを待ってる と言い換えてるだけなんですわ。
そんなんだから、主人公にとって、追いはぎするときの理屈が破たんしているかどうかなんかはじつのところどうでもいいらしい。
この短編って、青年が、悪党として生きていくきっかけをつかむ瞬間の心理の移り変わりを描写したものであって、
「自分勝手な理屈言ってたら会社つぶれちゃうでしょ、黙ってお前もサービス残業やってっちょ」的な教訓話とは違うらしいです。
羅生門の二階の暗闇で、鬼を見た。
それでむちゃくちゃ怖かったんです。
でもよく見たら、鬼の正体は人間で、ちまちまと死人の毛を抜いているらしい。
「なんだ、驚かせやがって」と安どすると同時にしょーもない老婆にビビらされたことに対してむかっ腹が立ってきた。
それと同時に自分を脅かしていた餓死という運命も卑小なものに思われて、超絶上から目線で老婆を尋問、
そして老婆の話を聞くうちに、自分がこれから手を染めようとしている路の論理が存外単純なことを納得し、
「何だ、簡単なことじゃないか」と青年は大人への一歩を踏み出していきましたとさ、
めでたしめでたし、
実は、そういう心理の流れの描写に主眼を置いた短編のようです。
そして、死人の髪を抜くことの善悪が不明なだけに、下人が善人モードから悪人モードに切り替わる展開が説得力をあまり持っていません。
正直、読んでてリアリティ感じません。
そしてこれでは、中学校の国語の授業の教訓話では本来扱いようもないような気がするのですが、どうでしょうか?
ちなみに、こちらは有志の方が、国語の宿題にさいなまれているだろう中高生のためにネット上で公開している『羅生門』の読書感想文のテンプレの数々
こういうことこういう風に書けば点数もらえるはずなんですよね。
http://www2k.biglobe.ne.jp/~onda/pdf-dokkan-20150901/rashomon-5a.pdf
こうなると、芥川龍之介の『羅生門』が世の中で果たしている役割って、義務教育受けている国民に思考停止させること、としか思えなくなってきます。
そして、国語の教師のいうこと真に受けたら終わり、ってやつのいいサンプルですわな。
ちなみにこちらは、大の大人がラノベに夢中な高校生の振りして書いたらしい「読書感想文」
一見ネタのようですけれど、『羅生門』を論理的にチェックしていけば、こういう突っ込みが出てこざるを得ない。
ちなみに私の当日2016年1月18日の感想といたしましては、
老婆の描写に際して、ヒキガエルとか鶏とか猿とかの動物の比喩がふんだんに盛られているのですが、
恐らく芥川龍之介の「人間だったら生きるために他者を踏みにじるようなことはできない良心があるはずだ。こんな畜生のような卑小な存在ではないはずだ。」というキリスト教の受け売り的な主張があるのだと思うのですが、
今の時代からすると、小動物に対する愛情のない手前勝手な思いあがったものの見方のように思われます。
芥川龍之介、おそらく、網戸の隙間から虫が飛び込んできたとか言って大騒ぎするようなはた迷惑な人間だったのでしょう。あんまり友達にしたいタイプではありません。
これ、
どれだけ言ってることが正しいとしても、「プっ」と笑われて65点で終わりなんでしょうな。
でも自分の方が正しいと思ったら、最期まで闘わなくてはいけないんですよね。それやるのしんどいから、夜にこっそりブログ書いてるだけなんですけどね。
アリス・クーパーなんか、蛇に対する偏見一切なさそう。むしろ逆に蛇食べさせられたら、
「あんな可愛い生き物を食わせるなんて信じられない」とか怒り出しそうな雰囲気。
それでは聞いてください。アリス・クーパーで『エイティーン』
芥川龍之介の『羅生門』について
デヴィッド・ボウイをしのびつつHDDの隅に放っておいたMP3をいろいろ聞きました。
ボウイだけでなく、ザ・スミスとかも私のHDDの片隅に転がっていました。
ザ・スミス、すごいというか、
こういうの売れるイギリスって日本とは全然違うと思います。
The Smiths - Panic (Official Music Video)
あたかも大学デビューに失敗した非リア充のごとき風貌でくねくねタコ踊り。
これで人気出てしまうってのもすごいんですが、
歌っている歌詞が
「ディスコに火を付けろ、うざいDJどもを吊すんだ。だってあいつらの流す音楽って、僕の人生に何の関係もないんだから」
清教徒革命以降、イギリス国内では アイルランド問題を除いて内乱ってありません。
だから階級闘争は武器ではなく、言論のみで行うのがイギリス式の在り方。
人殺しかねないようなきつい言葉使うのがイギリス式で、
そこまで言ってはばからないからイギリスのロックはここまで世界のシェアとれたのかもしれません。
そういえば、自分もずっと昔はこういう音楽聞いてたんだなと思いだしつつ、
HDDの片隅のザ・スミスの隣に日本文学作品の森繁久彌朗読が転がっていたんですね。
その内の一つが芥川龍之介の『羅生門』で、さっき聞いたんですが、
わたし、中学生の時にあの短編読まさせられて以来、ずっと思っていたんですが、
羅生門の二階に捨てられている死体から髪の毛抜く行為と
その髪を抜いている老婆をどついて着てるものはぎとる行為って
犯罪の程度が全然違うだろう?
不法投棄されている死体、役所もそれを放ったまま腐乱させてる死体の髪の毛抜いて何が悪い?
髪の毛抜くくらい、死体損傷とは言えないだろうに。
それとも、何かこういう根拠の見えにくい倫理観って、私のあずかり知らぬところで日本人律している訳?
臓器移植や脳死についてアメリカ人とずれがあるのは、なにかこういうのと関係があるの?
いまだに自分にはわからない。
それでネットで自分のように思ってる人っているのか調べてみたんですが、そういうのは見つけることができませんでした。
もし私の言っていることが正しいのなら、
芥川龍之介の『羅生門』って論理的に破たんしているわけですから、
主人公の青年の訳分からない感情の乱れ以外に何も表していないということになりかねない、
いやもっと正確に言いますと作者の芥川龍之介の論理的に破たんした感情の乱れを表しているだけということになるのですが、
そういうことネットに書いている人も見当たりませんでした。
誰も本当にこんな風に感じたりはしなかったのでしょうか?
ザ・スミスを中学生の時に聞いたような人でもこんな風には感じなかったのでしょうか?
Live On Mars?
演劇的ロックの代名詞的なデヴィッド・ボウイが死去しました。
Perfumeのステージも演劇的なんですが、意外な程にデヴィッド・ボウイとPerfumeには接点がありません。
あるとしたら、二年前のロンドン公演の会場がデヴィッド・ボウイのジギースターダストツアーの最終日の会場だったことくらい。
そこにはデヴィッド・ボウイへの追悼の言葉が掲げられました
まだ、きゃりーぱみゅぱみゅの方が接点があったりします。
日本人からすると
ボウイ → マドンナ → ガガ → ぱみゅぱみゅ
という系譜が見えるのですが、
いまとなっては、デヴィッド・ボウイもコスプレやってたんだ、という風にしか思えなくなりました。
ま、コスプレの対象が、アニメキャラとかではなく自分の歌詞の主人公という点がユニークなだけでしょうか。
おそらくきゃりーぱみゅぱみゅも、ああいうかっこして可愛いとかは思っていないはずで、
デヴィッド・ボウイも別にああいう宇宙人ファッションとか忍者ファッションしてかっこいいとかは思っていなかったっぽいです。
あたりまえっちゅやあ、当たり前なんですけど。
ベビメタに関しては、機会あるごとに海外の大物と記念撮影してますけど、
それら大物のうち何人もがデヴィッド・ボウイへの追悼コメントを発表してました。
むろん、レディ・ガガは言うまでもなし。
もし、デヴィッド・ボウイがあと数年生きていたら、ベビメタと記念撮影してたでしょうか?
で、レディ・ガガって、宇宙空間からライブやるって企画をデヴィッド・ボウイに一緒にやらないか、と誘うていたそうです。
デヴィッド・ボウイって、もともとSF小説好きってのもあるのでしょうが、
アポロ計画に便乗して『スペース・オディティ』って曲をヒットさせましたが、その後が続かない。
んで、NASAが次は火星探査に乗り出したのに合わせて『火星に生命?』って曲を出しました。
んで、それ不発で、そのあとに『スターマン』って曲でヒット飛ばすんですが、
まあ、成り行きとはいえ、宇宙ネタの多い人でした。
もし二人一緒にヴァージン・ギャラクテック社の宇宙船に乗ってライブしていたら、何歌ったんでしょう?
やっぱり、『レディ・スターダスト』でしょうか?
David Bowie - Lady Stardust (HD)
そういえば、中国が月の裏側に有人着陸させる計画を持っているんですが、
それ実現したら、ピンク・フロイドどういう扱いになるんでしょう?英語圏の国のロケットなら、そのニュースのBGMはこれしかないって感じなんですけど、
中国人には関係ねえんでしょうか?
そして、火星への有人飛行ですと、所要日数が片道二年半。
でも、この調子で人類が後100年も生き延びるとしたら、その間に誰か火星に着陸するんでしょうね。
そしたら、火星から中継、とかで歌うたったりする人も出てくるんでしょうね。
まあ、ソユーズの中でこういうことやる人いますし。
Perfumeが「解散コンサートは火星で」って言ってましたが、火星で歌う人って恐らく必ず出てくるはずで、
片道二年半ですから、スケジュールの忙しいスターには無理なのでしょうけれども。
暇人の棺桶に片足突っ込んだようなスターとか、歌の上手い宇宙飛行士が火星で歌うんでしょうね
んで、火星に着いたら、
デヴィッド・ボウイの『火星に生命?』歌うんでしょうか?
仮に50年後に火星に友人着陸がなされるとして、それまでデヴィッド・ボウイの曲が愛され続けるのでしょうか?
現在の音楽産業の萎み具合、壊滅具合を考慮しますと、あながちありえないことでもないような気がします。
この曲が発表されて、既に45年。
あと50年くらいはイケるような気がします。
この詞を簡単に要約すると、
家を追い出された女の子が、街をうろつくんだけれども、友達もみつからない。
一人ぼっちで、世の中の様子を映画でも見るように眺めるのだけれども、なにもかもがくだらない。
地球なんかにもう興味ないから、火星にでも行きたいな。
でも、火星に生き物って住めるのかしら?
『オズの魔法使い』だと、主人公の女の子は青い鳥のいる場所は虹のかなただと思うんですけど、
この詞だと、主人公の女の子は虹のかなたなんかどこにもないけど、もしかしたら火星になら?とぼんやり思うわけです。
そして、この曲の続編がアルバムの『ジギー・スターダスト』
David Bowie - Starman + lyrics
「はい、火星人です。ジギーと申します。今空の上で待ってます」
今日 これだけは、笑えた
んなことやってたんですね。
ま、レディガガもデビッドボウイのコスプレしていました。