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セカイ系とは、僕と君とその周辺で完結するセカイを救うお話である。
評論家の東浩紀らによって発刊された『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注による定義では、
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」とされている。
そのまんま村上春樹の小説の定義とでもいえそう。もしくはエヴァンゲリオンについての解説とも。
Perfumeはどうなのか?というと、中田ヤスタカの詞の世界はセカイ系的ですが、
その上に映像の解釈、振り付けの解釈が上塗りされた時点で、セカイから現実の世界にずっと近い場所にあるような気がします。
そして一番でかいのは、Perfumeはベビメタと違って、この手のほら話で固めた自己設定ストーリーを放棄した点。
ベビメタってあくまでもメタルレジスタンスというほら話をやり手も受け手も受け入れるというプロレス的な御約束事の世界ですが、
Pefumeって、『シークレット・シークレット』のようなSF設定を、継子扱いして都合いい時だけ思い出したように持ち出してくる。
PerfumeにとってSF設定よりも重要なのは、Perfume自身の成り上がりサクセスストーリーで、
ベビメタにとっての紙芝居って、Perfumeの場合はあ~ちゃんの涙まじりの苦労話らしい。
Perfumeって表現の在り方として、小説のような一人作業ではなく、アニメのような裏方に回る人たちを監督という独裁者が指揮した者とは違って、
非常に世界に対して開かれた在り方をしてた、まあ、アイドルって人に好かれてなんぼのものですから、
だから、中田ヤスタカの詞のセカイって、最初から崩れることを前提としてPerfumeに投入されたもののような気がします。
だって、きゃりーぱみゅぱみゅの詞って、もっとずっとシンプルでしょ?
中田ヤスタカはセカイ系的な資質持ってるのは間違いないでしょうが、セカイ系=中田の本質とは違うのではないか、
彼にとって、自身の中で時々目覚めるセカイ系の資質をPerfumeというプロジェクトに向かって意図的に捨てていた、
そう考えると、わたし的には、腑に落ちる点が多いです。
『セラミックガール』論考
この箇所の振り付けについて、なんか心の中に引っかかり感じられていた人って多いと思います。
こちら、バングルズの『ウォーク・ライク・エジプシャンズ』
人種差別的で不愉快な題名の曲なのですが、このポーズには、白人国家がオリエントのダンスについてどのような先入観を持ってきているかを露骨に示しています。
別にこの手のポーズは、バングルズのオリジナルでも何でもなく、映像記録的には、私の知る限り、
1919年の『イントレランス』のバビロニア編でこの手のダンスが見られます。
つまり、
本当のところ、オリエント国家のダンスのスタイルがこんな風かどうかは分からないのですが、
100年前から、アメリカ人は、というかキリスト教の白人国家は、オリエント・イスラムってこんな風に踊るという偏見を持っていたということ。
で、マジな話、この手の踊りって、根拠あるの?ないの?とネットで調べてみました。
たぶんないらしいです。
女体を黒衣で覆う伝統の長い地域ですから、女性のダンスの姿って表ざたにならない地域ですしね、
インドとか東南アジアの寺院奉納ダンスは多少似てるかもしれませんけど、それって特殊な場合の特殊な踊りですし。
で、いろいろ読んでみると、
どうやら、エジプトの壁画のスタイルをダンスに取り入れたつもりらしい。
つまり3Dの在り方を無理やり2D化した時に生じた限界を、
「古代エジプト人ってこう踊ったんだ」と低能な誤解したことに由来する、オリエント風味らしいです。
これを、『セラミック・ガール』で見た時、どう思うのか?
ということですが、
あなたがどう思ったかは知りませんけど、
私は、
「あっ、この歌の主人公のロボットってOSにバグが入ってる」っていうもの。
そして、このバグっている個所こそ、完璧な計算で作られたストピアからの脱出口だったりするらしいです。
つづく。
あと『五年間』で世界は廃墟になるという歌 軽音楽史の廃墟巡礼
Perfumeの近未来三部作って、廃墟、もしくはやがて廃墟になる場所を舞台としていますので、
Perfumeの歌の世界って、廃墟の存在を前提にしているといってもいいかもしれません。
そして、以前のポップミュージックは廃墟をどのように扱ってきたのだろうと、ちまちま調べてみるのですが、
デビッド・ボウイって、その手の歌のエキスパートだったりします。
終末観についてのコンセプトアルバムを何枚も出しましたし、
冷戦のさなかに、西側陣営の飛び地だった西ベルリンに好んで住んだりもしました。
david bowie + warsow で画像検索すると当然のごとくこのような陰鬱な写真が出てきます。
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ちなみに、『ワルシャワ』の収録された名盤『ロウ』。
David Bowie 5 years 1975 Dinah Shore show - YouTube
イギリスは、第二次大戦以上に第一次大戦の人的被害の方が大きくて、
イギリス人の脳裏にある破滅の光景って、日本人が思うよりも古風な第一次大戦的なものなのかもしれません。
H・G・ウエルズの『宇宙戦争』的なアンティークな滅びの世界とでも申しましょうか。
そして、イギリス文化がアメリカ的なものに侵食されていく悲しさをリアルタイムで実況している面白さがデビッド・ボウイにはあります。
ビートルズだと、英語の本家イギリスが上から目線でアメリカ文化を見てた感があるのですが、
このデビッド・ボウイの悲しさって、
最近の、中国に追い越された日本のつらさ、に通じるものがあるような気がします。
中国の隣に住んでいる日本人が、今現在、ありとあらゆる面で未来に対して希望が見いだせない、
当時のイギリス人はこれに近い感慨持っていたのかもしれません。
60年代とちがって、70年代になると、イギリスのロックミュージシャンは税金逃れのために、次々とアメリカに移住していきました。
そして、イギリスのロックスターの夢の光景って、大英帝国時代の面影がもうどこにもなく、アメリカ西海岸の豪邸のプールサイドに巨乳の姐ちゃんを侍らせて的なものに劣化収束してしまいました。
今の日本って、さらに立ち悪いことに、明らかに中国は軍事面で日本の仮想敵国なんですよね。
そりゃ、デストピア的心象風景は日本で流行るよ、と。
『廃墟の町』 軽音楽史の廃墟巡礼
Perfumeの近未来三部作って、廃墟、もしくはやがて廃墟になる場所を舞台としていますので、
その後のPerfumeの歌の世界も全般的には、廃墟の存在を前提にしているといってもいいかもしれません。
そして、
以前のポップミュージックは廃墟をどのように扱ってきたのだろうと、ちまちま調べてみるのですが、
よくよく考えてみれば、
日本とヨーロッパは第二次大戦の廃墟の上に社会が成り立っているという一般的認識があるはずですが、
本土が安泰だったアメリカはどうだったのでしょう?
目に見える形の焼け野原の代わりに、第三次大戦の幻影を人一倍恐れていたのかもしれません。
ニューメキシコ州での原爆の実験場。
ジョン・ウェインが癌で死んだのは、原爆実験場近くの砂漠地帯で西部劇の撮影していたからと言われています。
そしてアメリカの軽音楽での廃墟についての歌と言えば、
この曲がまず一番有名でしょうか、
ボブ・ディランの『廃墟の街』
「首吊りの絵葉書を売ってる人たちが、パスポートを茶色に塗っている。美容室は船乗りにあふれ、サーカスが街に来た」
これって、たぶん、マカロニ・ウェスタンの世界観だと思います。
アメリカの西部では、鉱山開発でいくつものブームタウンが生まれ、やがて鉱石が掘り尽されるとゴーストタウンとして捨てられました。そのうちのいくつかは西部劇のロケ地として「聖地巡礼」者や廃墟フェチお気に入りの観光スポットになったりもします。
『廃墟の街』の数年後、ボブ・ディランはアメリカ版マカロニ・ウエスタンにナイフ投げの名手の役で出演し、主題歌『ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア』を歌いました。
ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(Pat Garrett and Billy the Kid)は、サム・ペキンパー監督による西部劇映画。
ストロベリー・フィールド 軽音楽史の廃墟巡礼
Perfumeの近未来三部作って、廃墟、もしくはやがて廃墟になる場所を舞台としていますので、
Perfumeの歌の世界って、廃墟の存在を前提にしているといってもいいかもしれません。
そして、以前のポップミュージックは廃墟をどのように扱ってきたのだろうと、ちまちま調べてみるのですが、
ビートルズには、いくつかの超有名曲があり、
それらの曲は、ファン的には俗化が進みすぎた観光スポットのような扱いを受けています。
『イエスタデー』とか『レットイットビー』とか『ヘイジュード』のような曲のことです。ビートルズ解散後のソロ曲まで含めると、『イマジン』もそうです。
ファン自認するものにとっては避けて通るべきスポットで、たとえて言うなら京都嵐山の芸能人の経営する漬物屋とかが並んだ通りみたいな感じで、そこにたむろっているのは単なる物見遊山の一見さん観光客のみ。
そして、そういう人たちを除外して、深度のレベルの違いはあるにせよ、ファンを自認している人たちの中では、
『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』って曲は、ビートルズの中の一二を争う曲らしいのですよね。
かくいう私にとってもそうでして、
長年愛聴してきたのですが、
ビートルズにはいくつかの聖地があります。
ジョンレノンの育った家とか死んだセントラルパークは聖地化しています。
そういう生まれた・死んだのと無関係に聖地化した場所というと、
アビーロードの横断歩道。
ベビーメタルも記念撮影してますが、菊地最愛のやたらと元気な手の振りには、ビートルズ意識したところがどこにも見られない。
まあ、それはそれでいいんです。
それにアビーロードで録音したのはビートルズ以外にもいっぱい有名な人たちいますし。
こちらは、楽曲の歌枕として聖地化したストロベリー・フィールド。
これ見ると、どうやら、門柱削ってお土産にしてく人たちたくさんいるようです。ことの是非はともかく、その気持ちはよく分かります。
この聖地、 ネットに於いては戦争孤児院だったという記述もあれば、
女子の感化院(日本語でいうところの少年院でしょうか)だったという記述もあり、
10年ほど前に廃園になったという記述がありましたが、
わたくしてきには、35年前にビートルズファンになった当時すでに、ストロベリーフィールドは門だけになっていたという記述をどこかで読んだような気がします。
それゆえ、ストロベリーフィールドって孤児院だか感化院であるところの門の写真しか私は35年前から見たことないんですよね。
さらに言うと、ジョンレノンはこの曲について
ストロベリーフィールドは実在の場所ではないとインタビューで語っているとか。
もう何が本当かよく分からないのですが、
その実態の不明具合ゆえに、それぞれの人の心にそれぞれのストロベリーフィールドが存在し、ストロベリーフィールズと複数形になっているのかもしれません。
なにはともあれ、2015年の現在、完全に廃墟聖地と化しているようです。
でも、ジョン・レノンがこの名曲を作った時、少なくとも、彼の心の中ではストロベリー・フィールドという孤児院だか感化院は廃墟だったはずですし、
廃墟ゆえの心弾む要素が曲の中にはあります。
いや、もしかすると、親から見捨てられておばさんの家で暮らしていた少年時代のジョン・レノンにとっては、当時からストロベリー・フィールドって孤児院だか感化院はは虚みたいなものだったのかもしれません。
本来あったものが無くなってしまい、そこに居合わせたものの妄想をどこまでも懐深く許容してくれる場所、
ポップミュージック的にいうと、廃墟ってそういうことなのでしょう。
関和亮 Perfumeのパラレルワールドの演出者 『微かなカオリ』
Perfumeの詞の世界は、一つの世界を共有していない男の子と女の子の物語が主だ、と私は思っています。
男の子と女の子の世界はそれぞれズレていて、交わることがない。
でも、何かのきっかけで七夕の日の織姫と彦星みたいな接点を得る、そういう物語。
例えば、『チョコレート・ディスコ』ですけれど、
全然もてない男の子がバレンタインデーに、「もしかしてあの女の子からチョコレートもらえるんじゃないか」なんてほのかに期待してたら、女の子が別の男の子にチョコ渡す現場に遭遇して、茫然自失のあまり走り出してしまう。
たぶんそういう物語です。
バレンタインデーの前日に男の子は「もしかして…」なんてドキドキしてた時に、女の子もチョコを手作りしながら「彼の心射とめることできたらいいのに」ってドキドキしてる。
二人とも同時刻にドキドキした点では、二人に接点はあるんだけれど、
チョコがこの二人を結び付けることはなかったことから考えるに、二人の男女はパラレルワールドに住んでるようなもんだったわけです。
そしてこの手のPerfumeのキラーコンテンツとでもいうべき曲のほとんどは関和亮がPVを監督しています。
Perfumeの基本コンセプトはパラレルワールドと私が感じるのは、もしかすると中田ヤスタカのせいではなく、関和亮のおかげなのかもしれません。
【PV】 微かなカオリ Perfume FULL - YouTube
パラレルワールドにいる男女が、なにかのきっかけで二つの世界のつながり口をみつけてしまう、それがPerfumeが表現してきた物語だとしましょう。
その小さなつながり口を通しては限定的な知覚しか与えられません。
例えば、Perfumeによくある詞で、手探りとか指先で探すとか触覚オンリーの認識状況。
それから、相手の姿は見えないのに声だけは聞こえる、とか。『Voice』のことです。
そして、グループ名のPerfumeって香水の意味で、嗅覚刺激する要素ですから、においだけで微かにつながっている男女の物語も当然あっていいはずです。
そして、その物語が、『微かなカオリ』のはずですが、
基本的に、男女は、ロミオとジュリエットみたいに別々の世界に生きています。
スマホで撮ったようにめる縦長の画像が執拗に繰り返されます。
この意味って、人間の体って縦長ですから、それをできるだけ有効に映像に収めようとしたらスマホを縦の位置で撮影するのが当たり前です。
つまり、この縦長の動画を撮影している男の子の存在が、それとなく私たちには実感できるのですよね。
本当に好きな女の子をスマホで撮影するとき、youtubeに流すことかん変えて横向きで撮影します?
少しでも大好きな女の子の全身を多く映したいと思うはずでしょ?
『微かなカオリ』のPVってホームビデオ調のぬるい雰囲気が漂っているのですが、この映像の中には、男の子の存在が如実に見て取れます。
そしてこの男の子は、画面の中に出現して女の子を抱きしめたりキスしたりするのかというと、そんなことしません。
やっぱ、本来接点のないはずのパラレルワールドのように、この曲の終わりと同時にこの男の子の視点も消滅してしまいます。
こういうこと考えながら、『Magic of Love』のPV見ると面白いんですが、
ほとんど同じカットが山ほどあります。
つまり『Magic of Love』のマジックって、パラレルワールドに住んでいる女の子と男の子を結び付けるための魔法だったはずなのですが、少なくとも関和亮はそのように理解していたはずなのですけれども、
アメリカもイギリスもそのようには理解してくれなかった、Perfumeが長々と引きずってきた物語を理解してくれなかった、ゆえの海外での興行成績なのでしょう。
そして、それ以上につらいのは、私も含めて、日本人のファンでさえ『Magic of Love』をこのような観点で見たり聞いたりできなかったということ、なんですよね。
『ドリーム・ランド』から大船往きの『スター・トレイン』
下の画像は第二回の東京ドーム。
『ドリーム・ランド』に合わせて、天使の卵が天井から降ってくるという演出。スペクタクルとして素晴らしいものでした。
この曲、そしてこの演出が、Perfumeにとっての二度目の区切りらしく、
第一回目のドーム公演の開幕の儀式と相似形であるようです。
何度も何度もこのブログの中で書いたことですが、
Perfumeの詞の基本的世界って、
自分のことをぼくと呼ぶ少年が相手の女の子のことをきみと呼ぶ、という微妙な男女の距離感の世界です。
時には女の子が相手の男の子のことをきみと呼ぶこともあります。
英語とか中国語でしたら、恋人のことを第二人称で呼ぶシチュエーションは普通にありますが、
日本語の場合、相手を第二人称で呼ぶ機会はほとんどありません。仲良ければ、名前で読んだり、おい、とか、ちょっと、とか言うだけです。
逆に、初対面の場合ですと、名詞を受け取ったらすぐに、相手の名前にさんを付けて呼ばないといけないプレッシャーにさらされます。
男の子と女の子が、ぼくときみと呼び合うのは、実のところリアリティの欠如した人間関係のように見えるのですが、
実のところ、そのようなPerfumeの詞の主人公たちは、本当のことを言うと人間関係成り立っていない、つまり一つの世界を共有していないらしいのです。
何度も書いたことですが、
男の子と女の子はSF的なシチュエーションの場合ならパラレルワールドに住んでいて相手の存在を感じはしても実態に触れあうことができない。
顕著な例ですと『エレクトロ・ワールド』、それから『Voice』もそうでしょうか。
現実的なシチュエーションの場合なら、男の子と女の子は全く別のことを考えている。
例えば、『Spice』の「同じ部屋で触れていても、距離は遠くに感じてるの」とかがそうですし、『ねえ』もそうですね。『ナチュラルに恋して』とか『不自然なガール』もそうでしょうか。
そして『リラックス・イン・ザ・シティ』は幸せそうな歌に聞こえますけれども、多分女の子の側に君と呼ばれている男の子はいない。女の子は一人ぼっちのはずです。
そしてそんな一つの世界を共有していない男の子と女の子が何かのきっかけで一つの世界の中で出会う瞬間が、Perfumeの演劇的なパフォーマンスの一番の殺しどころでして、『マカロニ』ってそういう曲ですし、『ポリリズム』が感動的なのもそこです。
「ほんの少しのぼくの気持ちがきみに伝わる、そう信じてる」
「とても大事なきみの思いは無駄にならない、世界は回る」
この男の子と女の子も、一つの世界を共有していないらしいです。でも、二つの世界ってどこかでつながっていて、互いの存在を感じ合うことができるらしいんですね。
このスタイルがPerfumeの、というか中田ヤスタカのPerfumeに対する基本方針なのでしょう。
中田ヤスタカは、自分の思うところをアイドルの口を借りて語らせることはしない。そして自分が思いもしないことを「アイドルなら言いそうだから」というだけの理由で詞にしたりはしない。
彼はあくまで、短編小説というか短編映画の脚本のような詞を作り、アイドルの三人は主役としてその登場人物を演じる、Perfumeのすごさって、そういう基本方針を発展させた演劇性のすばらしさにあったのではないでしょうか。
そして、何年も続けていけば、
傍にいるのに触れ合うことのできない男女関係って、煮詰まって来ますし、
「いつまでも子供同士じゃないんだから、相手をしっかり抱きしめたらどうだ」的な歯がゆさがつのっていきます。
下の画像は、エヴァンゲリオンのリメイクの第二作のラストです。ぐだぐだとネガティブな少年が、自分の好きな女の子にはっきりと愛情を告げて、その言葉の責任を取るためにがむしゃらになるシーンですが、
エヴァンゲリオンって、グダグダしている男の子の物語ですから、物語りの中間地点でこんなことしちゃうと、この先話続かないだろと私は思ってしまいました。
そしたら案の定というか、この次の第三作目では、なんか訳のわからないパラレルワールドの話になってしまい、もうみんな唖然茫然。
そして、Perfumeの『ドリーム・ランド』に対しても、似たような感慨を私は持っていました。
「まだ戻れるよ、ぼくがきみの腕を引くから」
この一行、エヴァンゲリオンですよね。
『ドリーム・ランド』の詞を読んでいますと、「come again まだ戻れるよ」ってどこに戻るのだろうかはっきりしません。
夢の廃墟にしがみついてジャンキーになりかけの人が現実の世界に戻れるということでしょうか、それとも、現実の世界ですり切れた人がまだ子供の時の夢の世界に戻れるという意味でしょうか?
わたしは、ミヒャエル・エンデの小説『ネヴァー・エンディング・ストーリー』的に、夢の廃墟にしがみついてジャンキーになりかけの人が現実の世界に戻るチャンスについての方が主だという気がします。
そして、Perfumeがこんな歌うたったら、次の展開いったいどうするんだよ?演じ分ける女の子と男の子のイメージが無くなっちゃうじゃないという危惧がどこかにありました。
第二回のドーム公演でも、
私たちは自分たちの夢かなえたんじゃけん、次はあんたたちが自分の夢をかなえる番よとでも言わんばかりに、天使の卵が上から降ってきて、三人はステージの奥の大きな卵型のドームにあたかも天岩戸ごもりするように収容されていきました。
えっ、次は俺の番?って説教はいいけどさ、あんたたちこれからどうすんの?延々と説教だけ続けていく訳?
これが二年前の話です。
そして、やっと、『ドリーム・ランド』の物語のつづきが『スター・トレイン』で語られたような気がします。
男の子と女の子は、宮沢賢治の小説のジョバンニとカンパネルラのように、もしくは『銀河鉄道999』の鉄郎とメーテルのように二人で蒸気機関車に乗り込んで、どこまでもいくと誓い合ったように私には感じられます。
今後のPerfumeに於いては、詞の世界に演じ分けるべき二人の人物が存在せず、今までのような演劇性はトーンダウンしていくかもしれません。