誰でも一度は感想文書かされたであろう『羅生門』について
その中身って同じく芥川の『藪の中』の方で、
『羅生門』の方って、題名の拝借、それに語り部のいる場所にすぎませんでした。
人って、みんな自分に都合のいいように世の中見てて、みんな砂粒のようにバラバラ。
「みんな自分に都合のいいように世の中見てる」ってことに関して言うなら、『藪の中』の方はよくできてるけど、『羅生門』の方は実のところそういう論理で成り立ってる短編ではいないらしいです。
「成程な、
芥川龍之介、英文科卒ですから、その文章の書き方、やたらと読点が多いです。
私たちは小学校で、「読点は一秒、句読点は三秒、読むのを休みましょう」とならうんですが、
芥川式の読点は、それとは全然違う理屈でうたれています。
英語の単語の分かち書きのスタイル+英文のコンマの箇所に全部読点入れてたら、そりゃ、読点の数は増えるんですよね。
で、ほんとのこというと、「読点は一秒、句読点は三秒、読むのを休みましょう」的な小学校の教え方って、日本人の知的レベルの足引っ張っているはずです。
話ずれましたが、
『羅生門』の「みんな悪いことしてるんだからわしだって…」的な論理ですが、
・蛇を魚と偽って売っていたということですが、
これ、別に被害者いない訳でしょ? 逆にみんな美味い美味いって喜んでいた。
しかも飢饉が蔓延してる時代に、偽装とはいえ食料を都に供給していたんでしょ?
むしろ称賛に価すると思われます。
私も中国で蛇何回か食べましたが、普通に食えます。この場合ですと日干しして、それを焼くか煮るかして食べるらしいですから寄生虫の被害もないでしょう。
でも、魚の方がうまいですけどね。
・死人の髪を抜くということですが、
これこそ、どこにも被害者いないわけでしょ? 打ち捨てられた死体に意識があるってのならともかく。
べつにいいじゃない、と私はおもいます。
それに対して、下人の理屈は、
「では、
って、明らかに被害者がいる訳で、全然レベルが違う話じゃないですか。
大体、餓死したくないんだったら、どこかで食料奪って来るのが手っ取り早い訳で、
老婆の汚い着物盗んでも、それ市場で換金して食料と取り換えるとか二度手間三度手間です。
つまり、下人のやったことって単なる弱い者いじめです。
蛇の干し肉売った女の場合、上流階級欺くことで利益得たのですから一種の階級闘争と言えなくもありません。下人と比べてはるかに志が高くありませんか?
さらに言うと、
下人にとって選択すべき路は、本来泥棒になるか飢え死にするかの二つだったはずなのに、
老婆は、死人の髪抜いてズラを作って売ることと蛇の肉を干魚と称して売ることの二つのビジネスモデルを提示してくれているのです。
ここで下人の選択肢は四つに増えているはずなのに、彼はそのことに気が付かず恩知らずにも追いはぎやってるんですよね。
もし読者が善良な一市民であり、本気で登場人物の立場で物語読んだとしたら、必ずこの選択肢の問題に行き当たるはずです。
「俺だったら、まずズラの生産工程とその利益について老婆に根掘り葉掘り聞いてみるわ」
つまり、『羅生門』って、中学校や高校では、
「自分勝手な理屈言ってたら世の中まとまらないでしょ」的な教訓話として利用されているんですけど、
よく読んでみると、下人の言ってることだけ屁理屈でおかしいわけです。
芥川龍之介がどこまでこのことわかって書いてたのか怪しいのですが、
この短編の主眼って、どうもここではないらしいんですよね。
「下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。」
ここまで下人の論理を突き放してしまうと、「ひどく投げやりな論理の短編だなぁ」と思わざるを得ないとこです。
本当は芥川龍之介も、死人の髪抜くことの善悪に対しては何も分かっていないっぽいです。
最初の一行目に
「一人の
とありますけど、そのしばらく後で
「 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず
と作者自ら突っ込みいれてる。
つまり、下人って、最初から泥棒になるきっかけ待ってただけなんですよね。
そのきっかけを待っているのを、雨が止むのを待ってる と言い換えてるだけなんですわ。
そんなんだから、主人公にとって、追いはぎするときの理屈が破たんしているかどうかなんかはじつのところどうでもいいらしい。
この短編って、青年が、悪党として生きていくきっかけをつかむ瞬間の心理の移り変わりを描写したものであって、
「自分勝手な理屈言ってたら会社つぶれちゃうでしょ、黙ってお前もサービス残業やってっちょ」的な教訓話とは違うらしいです。
羅生門の二階の暗闇で、鬼を見た。
それでむちゃくちゃ怖かったんです。
でもよく見たら、鬼の正体は人間で、ちまちまと死人の毛を抜いているらしい。
「なんだ、驚かせやがって」と安どすると同時にしょーもない老婆にビビらされたことに対してむかっ腹が立ってきた。
それと同時に自分を脅かしていた餓死という運命も卑小なものに思われて、超絶上から目線で老婆を尋問、
そして老婆の話を聞くうちに、自分がこれから手を染めようとしている路の論理が存外単純なことを納得し、
「何だ、簡単なことじゃないか」と青年は大人への一歩を踏み出していきましたとさ、
めでたしめでたし、
実は、そういう心理の流れの描写に主眼を置いた短編のようです。
そして、死人の髪を抜くことの善悪が不明なだけに、下人が善人モードから悪人モードに切り替わる展開が説得力をあまり持っていません。
正直、読んでてリアリティ感じません。
そしてこれでは、中学校の国語の授業の教訓話では本来扱いようもないような気がするのですが、どうでしょうか?
ちなみに、こちらは有志の方が、国語の宿題にさいなまれているだろう中高生のためにネット上で公開している『羅生門』の読書感想文のテンプレの数々
こういうことこういう風に書けば点数もらえるはずなんですよね。
http://www2k.biglobe.ne.jp/~onda/pdf-dokkan-20150901/rashomon-5a.pdf
こうなると、芥川龍之介の『羅生門』が世の中で果たしている役割って、義務教育受けている国民に思考停止させること、としか思えなくなってきます。
そして、国語の教師のいうこと真に受けたら終わり、ってやつのいいサンプルですわな。
ちなみにこちらは、大の大人がラノベに夢中な高校生の振りして書いたらしい「読書感想文」
一見ネタのようですけれど、『羅生門』を論理的にチェックしていけば、こういう突っ込みが出てこざるを得ない。
ちなみに私の当日2016年1月18日の感想といたしましては、
老婆の描写に際して、ヒキガエルとか鶏とか猿とかの動物の比喩がふんだんに盛られているのですが、
恐らく芥川龍之介の「人間だったら生きるために他者を踏みにじるようなことはできない良心があるはずだ。こんな畜生のような卑小な存在ではないはずだ。」というキリスト教の受け売り的な主張があるのだと思うのですが、
今の時代からすると、小動物に対する愛情のない手前勝手な思いあがったものの見方のように思われます。
芥川龍之介、おそらく、網戸の隙間から虫が飛び込んできたとか言って大騒ぎするようなはた迷惑な人間だったのでしょう。あんまり友達にしたいタイプではありません。
これ、
どれだけ言ってることが正しいとしても、「プっ」と笑われて65点で終わりなんでしょうな。
でも自分の方が正しいと思ったら、最期まで闘わなくてはいけないんですよね。それやるのしんどいから、夜にこっそりブログ書いてるだけなんですけどね。
アリス・クーパーなんか、蛇に対する偏見一切なさそう。むしろ逆に蛇食べさせられたら、
「あんな可愛い生き物を食わせるなんて信じられない」とか怒り出しそうな雰囲気。
それでは聞いてください。アリス・クーパーで『エイティーン』