韓流を批判する前に

わたくし、実は複数のブログに文章を書いておりまして、そして、それらは各ブログごとに内容が色分けされていたのですが、10日前にパフュームのファンになって以来、全てのブログの内容がパフューム一色になってしまいました。

とにかく、すごいんですよ、パフュームは。
小幡績氏が「今年はパフューム、来年もパフューム、次の世紀もパフューム」ということに私も両手を上げて賛成なのですが、
私の場合は、彼の言葉を少し、いじって「まよったらパフューム、困ったらパフューム、次の世紀はパフューム」と心に決めております。



どっかに書いてあると思いますが、私がパフュームを知るきっかけになったのは、韓流についてyoutubeで調べてみたことです。
その点では「韓流」というヤラセには、感謝しなくてはいけません。

以前から、ネット上で「韓流」とは仕組まれたブームであり、そこには電通及び様々な分野の韓国ロビーイストが関わっていると言われていたことは私も知っておりました。

まあ 別に、私は気にもとめなかったのですが、

ある日、突如、気がついてしまったのは、
レンタル店のツタヤとかゲオに行くと、日本の映画ドラマのDVDの総数よりも韓国の映画ドラマのDVDの総数の方が多量に置かれているのですね。
まあ、
韓国のドラマは日本で放送される機会は少ないのですから、既に放映された日本のドラマよりも重点的にレンタル店に置いてあるというのは間違いではないのかもしれませんが、それにしてもおかしくないですか?

一時、「韓流」の次は「華流」だ、ということで中華圏のコンテンツについてどうのこうの言われたこともありましたけど、
そういうのはツタヤとかゲオには定着していません。

個人的なことながら、私、以前、上海に住んでおりまして、そこにはいたるところからやって来た外人がいますんで(パキスタンとかナイジェリアもいましたよ)、当然韓国の友人知り合いもできまして、別に私は韓国人に対して悪い印象持っていなかったんですが(そりゃ、野蛮人レベルの中国人が山ほどいる中では、韓国人なんて実に洗練された人々ですし、韓国人にしたところで、中国人に比べりゃ日本人はいいわ、みたいなこと言っています。中国って下水精製して食用油抽出するような社会ですよ)

でも、

それにしても、今の日本のレンタル店の状況はおかしいよな、と。

上海にいた時に、韓国のドラマや映画見ていましたし、もちろん中国や台湾制作のドラマや映画も見ていました。
正直申しまして、時代劇に関しては、中国制作のものはスケールが大きく、制作費もかかっているので面白いです。一人当たりのGDPが少ないとはいえ、全体の人口は韓国の30倍くらいありますし、歴史を通して、常に人口は韓国の30倍くらいあった国です。

時代劇、それも戦乱の世に関する物語を作る背景というのは、中国と韓国ではレベルが違います。
正直、韓国のインチキ時代劇というのは、私には辛い。
歴史上キャラのたった人物って、中国と韓国では数が30倍違います(それいったら、日本と中国でもそうなるんですけれども)。

こんな韓国のヤラセの時代劇見ているくらいだったら、中国国営放送の作った戦前の魔都上海系のドラマの方がはるかに面白いですわ。
歴史的に、最もしょぼかった時の中国でも、個別の部分を取り上げたら、相当に華のあるドラマの背景が成り立ちます。
戦前の上海ネタは面白いですわ。
日本の文化人たちも、上海好んでいました。



日本の大河ドラマがなぜつまらないのかというと、
ネタが尽きたからです。
日本では、血湧き肉踊るような時代というのは、戦国時代と明治維新しかありませんから、その辺の偉人たちの物語を一通りさらうと、それでドラマのネタが尽きてしまいます。
そんだから、戦国や明治維新腐女子の視点から見直そうという、クソみたいなドラマが放送されてしまうのですが、
(実は、あの製作者、私の中学の同級生なんですが…、クソですわ。彼の歴史の成績はあんまり良くなかったですし、根本的に歴史に興味ない奴がNHK大河ドラマを作っているってことです)

それと比べりゃ、中国史には華のある時代(血塗られた時代といってもいいんですけれども)がいくらでもありますから、大河ドラマのネタはほぼ無尽蔵です。

つい、15年前まで、登小平という戦国時代の軍師みたいな男が牛耳っていた国ですし、ね。



マジな話、おかしいでしょ?
日本はアジアの国のコンテンツに対して閉鎖的であるというなら、中国のコンテンツに対しても、もっと積極的に開かれるべきであると思われるのですが、
そういう建前的な理屈の割には、日本に入ってくるコンテンツは「韓流」ばかりです。

中国では、日本の大河ドラマの数倍の予算のドラマがバンバン制作放映されているので、そういうのもっと日本のテレビで放送すれ、と思うんですが、
「華流」というものは、バックアップする組織が日本にないのでしょう、ほとんど定着していません。

おそらく、私が考えるに、中国と台湾さらには香港の間で政治的に分断されているので、中華圏のコンテンツをひとつにまとめて「華流」として日本にブームを作るのが難しいのだろうと思います。

それと比べると、韓国のコンテンツというのは、歴史的に日本において彼らのロビー活動が強いということと、韓国という一国の意向がとことん反映されやすいという点で有利なのでしょう。



つまり、私が、言いたいことというのは、「韓流」が自然発生的なものであるというなら、「華流」だって起きているはずだろう?それがないということは、明らかに露骨な韓国政府とそのエージェントの意向が日本で働いているということではないか?ということです。




まあ、そういう流れから、「韓流」はおかしいのではないか、と私は疑問を抱き、youtubeで少女時代とかkaraとかチェックしてみたんですが、

これが、完全なゴミ。

完全なゴミっちゅやあ、浜崎あゆみもそうだったんですが(ただ、あいつには宇多田ヒカルと向き合えないライトユーザーを掬うという社会的意義がありました、今になってみると)、


正直、こんなくだらないものに、日本のテレビなり芸能界なりマスコミって蚕食されてるの?と、ものすごく唖然としたのですね。

宮崎あおいの旦那(もう離婚しましたけど)が、フジテレビが韓国ロビーストにやられてしまった、ということをツイッターして、話題になりましたけど、

福島の原発が吹っ飛んで、私、よく了解しました。

フジ産経、読売  原発推進派 ―> 将来の核武装を考慮している = 冷戦における西側の防波堤役 = 韓国より
アサヒ 毎日 原発反対 ―> 中共朝鮮総連より = 日本の軍事力弱体バンザイ

冷戦を戦いぬこうと決意し、日米安保をゴリ押した岸信介のバックアップの下にできたのがフジサンケイグループですから、韓国ロビーイストが伝統的に強いのでしょう。
今回の「韓流」では、露骨にやってくれているな、という感じは、確かにあります。

20世紀の産んだ一番有名な楽器

わたくし、よく、奇をてらったようなことを言うんですが、
そして、それゆえに、ある種のアホからは黙殺されるのですが、

「大概、言っていることは外していない」と自分では思っております。


ここで質問
「20世紀の生んだ一番有名な楽器とは何でしょう?答えはあくまで私の独断です」

シンセサイザーエレキギター?マイク?

いやいや、いやいや。


答えは、車です。



RCAという、25年前に倒産したアメリカの会社がありまして、以前ビクターの親会社だったこともあります。RKOという名で映画制作もおこなっており、「市民ケーン」とか「キングコング」を見るとRKOのタイトルが出てきます。
また、アメリカの小説を読んでいるとロックフェラーセンターに自社ビルを所有していたことを知ることもできますし、
わたし的には、エルビスとかデヴィッド・ボウイのレコード会社で1800円という、80年代では格安のLPレコードを販売していた会社でもありました。

会社は潰れ、GEに吸収されましたが、RCAプラグというのは、今も世に残っています。


この会社がでかくなったキッカケというのは、1920年代のアメリカの好況期に、車用のラジオを製造していたことです。
車に乗ってラジオ番組や音楽を聴くことは当たり前になってしまいましたが、誰かがはじめるまでは、カーステレオもカーラジオもなかったんですよ。
ラジオの商業放送が始まるのが1920年代ですが、程なくして、車にラジオを乗っけるようになります。

これによって夜の退屈な運転が慰められることになるのですが、
車というのは、エンジン音がうるさいんですよ。それ故に車で聴く音楽というのはエンジン音と競合する音域を強く出さなくてはいけません。

車で聞いて心地よい音楽、エンジン音と競合する音域を強く出す音楽、
つまりジャズとロックの発展というのは、車の存在なくては語ることができません。




東京に住んでいるとわかんないですけど、車がないと生きていけない田舎に住んでみると、このことはよく分かります。
カーステレオって、エンジン音と競合する音域をはっきり聞こえるようにいじってありますし、ロックって本来車向けにできてる音楽なんです。
ドビッシーとかモーツアルトを車で聴いても、なんも楽しくないですよ。



二拍子が人が歩くリズムの模倣、三拍子が馬の歩くリズムの模倣、四拍子がスキップの模倣というようなことがwikipediaに書かれていて、私は、それに大賛成なんですが、
じゃあ、八や十六は何なんだ?と言いますと、
車ですわね、車、
ありゃ、理論的には、車以前に成立するリズムですが、普及したのは車があったからです。


人間ってそんなに自由な生き物ではないんですよ。人間の思考、表現というのは物理的な条件に大枠を限定されているもんです。
逆に言えば、物理的条件が変われば、ものすごく自由になれるのが人間という生き物であるとも言えます。
そして、それは、20世紀の人類の歴史ではないでしょうか?



金持ち国家アメリカでは、18歳が車を持っていることを前提とした音楽(ビーチボーイズとかのことですが)を作っていたのに対し、貧乏先進国のイギリスは青少年が車を持っていないという事実、車がないにも関わらず車用の音楽を聴いたり歌ったりしているという変な事実についての歪な歌、それが、この、ドライブマイカーの趣旨。

つまり、あなたにとってはPerfumeとBEATLESって同じなんですか?っつう話しについて

村上春樹 「ノルウェーの森」くだらないでしょ?

なぜ下らないかというと、愛がないからです。


ビートルズ好きじゃないとかいっている人間が、ビートルズの世界的人気に便乗した作品が「ノルウェーの森」でして、

わたし、映画、見たんですけど、
正直申しましょう、くだらないですわ。
というか、あの小説のくだらなさが、映画化された時に初めて分かった。
それだけで、あの映画の価値ってありますわ。


IQ84とかも、ジョージオーウェルの小説が20世紀最高という評価を受けている事実を踏まえて、売れ線狙ってるってのが透けて見えます。


それゆえに、彼にはノーベル賞をとって欲しい。
文学という、西洋由来の、痛々しい文化様式がオワコンだということを歴史に証明して欲しいものです。



ポップミュージックにおけるアルバム文化というのは、いつから始まったのだろう?
ビートルズのラバーソウル辺りからなんでしょうか?と思うんですが、
この45年ほどの伝統、もうすぐ終わるのではなかろうか?perfumeって、シングルとCMのタイアップ曲が10曲たまったらアルバムにまとめてるだけで、アルバム作ることを目的としていないのですね。

PCで音楽データを管理するようになって、アルバムまるごと聞くことが減ったとか、アルバムを真剣に作っても採算が合わないようになったとか、いろいろ理由あると思います。

10年前は、わたしも、こんなこと考えてみもしませんでした。


12曲とか14曲で構成されるアルバムにより自己表現するというのは、ビートルズに始まりperfumeに終わるってとこでしょうか。

ねえ、ねえ、ねえ、ねえ‥・

perfumeの大ファンになって初めてわかったことなんですが、

ラジオとレコード、つまり、音楽を耳だけで聞く、ということって、
ここ百年程度の異常事態に過ぎないですよね。


音楽って、音を出している人たちの情景を無視して、音だけで聞いている、純粋音、そういうのって、人間の脳のあり方を考えると、一時の異常事態にすぎんわな。


私にとってはperfumeって、beatlesと同じなんです。

根本的な価値変換なんですわね


まあ、それはいいとしまして、
小幡績氏の

perfume窯変理論、
韓流アイドルというのは、「大衆とはこういうものを欲しているのだろう」という上から目線のマーケティングで仕組まれているのに対し、perfumeというの、たまたま偶然の要素がいくつも重なって初めて成立している稀有な存在だそうです。
だから、真似しようとしても、なかなか真似できない。
人間国宝が窯で一万個焼いて、初めて一個納得のいくもの焼き物ができる、そういうレベルの存在。

別のところで、小幡績氏は、「perfumeは奇跡、そして奇跡は起こり続ける」とおっしゃっております。

窯変、つまり人間国宝でも一万分の一の確率でしか実現できないということは、何も知らない素人がやったら、一億個焼いても無理なのではないか、

釉薬や温度の調節や粘土の選び方において、一定の技術と法則を習得することで、一億分の一を一万分の一までの確率に圧縮することができているのだろう、それが人間国宝の力量というものだろう、

それならば、perfumeの窯変にある、秘訣というのはどこまではっきりさせることができるのだろう?



わたし、この10日間ずっとそのことばかり考えておりまして、
ここまでperfumeについて肯定的にしか見れなくなってしまうと、つい第一印象のことを忘れてしまいそうになるのですね。

第一印象というのは、私の場合、
「この人たち、何やってんの?」というものでした。
曲はかっこいいけど、
作詞作曲は人任せ、歌は技術とは無縁の平坦なもの、さらにはどうせユニゾンだから三人のうち誰が歌っているか分からない上に音声電気処理されて肉声ではなくなっている、そして歌詞よく聞き取れないですし、とどめには完全な口パク。

「あんたたち、ステージの上で何やってるの?ただ踊ってるだけじゃない」

perfumeのファンになれない人というのは、認識がここで止まってしまうのですね。

私の場合は、すぐに、このラインを超えて、極めて肯定的な見方を彼女たちにするようになります。

「この子達、踊ってるだけなんだけど、でも、この音楽って彼女たちが支配しているよな。何でそんなことが可能なのだろう?」
で、なん度も繰り返し繰り返しyoutubeを再生し続ながら考えるわけです。
私の場合、2時間くらいずっと『glitter』を繰り返して再生しておりました。


perfumeのライブをyoutubeで見ますと、大抵彼女たちは終演が近づくと感極まって泣いてたりするんですが、それ見ている方もボロボロ涙流しながら見てたりするんですが、この泣いてしまう原因とはなんなんだろう?ここに彼女たちの奇跡の理由があるのではないか?と私は考えました。

「作詞作曲は人任せ、歌は技術とは無縁の平坦なもの、さらにはどうせユニゾンだから誰が歌っているか分からない上に音声電気処理されている、そして歌詞よく聞き取れないですし、とどめには完全に口パク。あんたたち、ステージの上で何やってるの?ただ踊ってるだけじゃない」

実は、彼女たちにとって、ステージとは、上のような冷たい視線との戦いの場でもあるのでしょう。

そして、上のような冷たい視線というのは他者からだけのものではなく、彼女たち自身の内面の迷いでもあるのではなかろうか。
「自分たちは何のためにステージの上にいるのだろう?他の人と取り替えられてもなんの支障もないのではないか?そもそもステージの上にいていいのか?」

私から見ると、perfumeってエヴァンゲリオンに近いのですね。

彼女たちは、言葉を持たず、歌声さえも歪められたうえで、それでもなお体の動きにより観客とコミュニケーションをとろうと必死になります。
これは、ほとんど絶望的な条件下でのコミュニケーションなのですが、自分の存在意義を見つけるための彼女たちの「動き」によるコミュニケーション欲求の強さというのは、ちょっと他に例を見ないほど強いものです。
そして、そこには、嘘がない。
言葉を使って嘘をつくのは簡単ですが、仕草だけで嘘をつくのは実はものすごく難しい。仕草だけで嘘を付ける人は普通は役者と呼ばれる特殊技能者に限られます。

彼女たちのライブというのは、自分たちがステージの上にいてもいいということを周りの人たちと自分自身に了解させるための勝負なんです。

冷静に考えると、これはそうとう異常なことです。普通私たちは、スターは自己を表現する人であると考えており、歌は自己表現の典型的手段であると考えています。perfumeというのは、スターであるはずの彼女たちに、その本来の自己表現を禁じているのですね。そして禁じることで、彼女たちの危機感を高めることにより、それまで誰も思ってみなかったようなレベルでの観客とのツナガリが実感できるようなコミュニケーションが取れてしまう、
そういうことだと私には思われます。


私が考える非常に典型的なperfumeの歌。 歌詞、よく分かりません。声も電気処理されています。ただ、誰かに話しかけようとよびかける「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ」という声だけが、ここにある、それだけで十分なんですよ。perfume見てボロボロ泣いている人というのは、こういう仕組みに泣いているわけです。人に何かを伝えたいという思いの強さに泣いているわけで、伝えている内容に泣いているわけではないんです、多分。


「作詞作曲は人任せ、歌は技術とは無縁の平坦なもの、さらにはどうせユニゾンだから誰が歌っているか分からない上に音声電気処理されている、そして歌詞よく聞き取れないですし、とどめには完全に口パク。あんたたち、ステージの上で何やってるの?ただ踊ってるだけじゃない」

こういうネガティブな見方は、おそらく今後も絶対なくなることはないでしょうから、それが彼女たちのパフォーマンスのモチベーションであり続けるのではないでしょうか。
perfumeは戦い続けることができる、そして戦う度に彼女たちは勝てるんですね。

なんで勝てるのか?については次回に。