Perfumeに対して少し冷静になってみる
なんで、自分がこんなに、Perfumeに対して熱く語ってしまうのか?というと、
私、音楽教育受けていないんですよ。楽譜を音にできないし、音楽理論何も知りません。
そんだから、今までずっと音楽のこと語ること出来なかったんですよ。
そうなるとロッキンオン的な批評のあり方なんですが、
楽譜読めないんだったら、音楽家の素性探れとか生い立ち語れみたいな方に流れやすいんですよね。
音楽聴いて、その表現者の内面を当てるみたいな。インタビューで裏とって、本当にその推量が正しかったらピッタシカンカンみたいな。
それが、いやで、ロッキンオン買うのやめたんですが、
Perfume聞くとわかるんですが、音楽って作曲家や歌手のもんじゃなくて、聴く人のもの、というかみんなのものなんですね。
Perfumeって、いわゆる「音楽」じゃないんですよ。少なくとも彼女たち三人のやっていることというのは音楽じゃない。
視覚情報として語ることできるから、映画について語ることに慣れている私みたいな人間、それも表層批評的に見る訓練積んじゃった人間には、語りやすい、というかこんなにも語れてしまう「音楽」って初めてなんですよ。
逆に言うと、映画を表象批評的に見る訓練積んでいない人で、Perfume熱く語る人っているのかな?なんて思ったりもするんですね。
でも、Perfumeっていろんな切り口ありますからね。
ケイト・ブッシュのビデオ見ながら、「Perfumeと表現主義」みたいな論文書くこともできるよな、なんて思ったり。
なんでこんなにPerfumeって多様な見方を許してしまうのかというと、それは、彼女たちが周囲の人たちに支えられていることを意識し、助けてくれる人たちを一切拒まなかったからなんだろうと思うのです。
ビートルズにしてもストーンズにしても、彼らの歌詞って「No」ばっかりじゃないですか。
それに比べりゃ、Perfumeって、何でもありの、なんに対しても「Yes」のイエスマンですわ。
だから、彼女たちによって表現されるものというのは、多くの人たちが持ち寄った優れたものの集積なのだろう、
そして、その助ける人たちの中には、とんでもないインテリもいっぱいいるでしょうから、インテリっぽい切り口で語ること簡単なんですよね。
そして、それと同時に、「どうせかしゆかの太もも好きなんだろ、エロ爺め」みたいな地に足のついた楽しさってのもあるんですよ。
ジョンレノンがオノヨーコ好きになったきっかけが、個展ではしごに上がって双眼鏡で天井に書かれている「yes」の文字を読まされたことなんですが、
これって何か示唆的だよな、というかPerfumeって世界的に成功するよな、と感じさせてくれるんですね。
向こうの連中もしょっちゅう「no」ばかり言って、自分と他人との違いを明確にすることに疲れているんだろうなって思います。
そんな時に、Perfume見ちゃうと、やられてしまうんじゃないだろか。
ジョンレノンがオノヨーコ好きになったみたいに、みんながPerfume好きになるんじゃないか、なんて。
突如分かったことなんですが、
Perfumeって小学生の時からキャリア積んでるじゃないですか。
普通は、おっさん世代のアイドル観で言うと、アイドルの下積みっていうと枕営業=人間性の荒廃って思うじゃないですか。
でも、彼女たちが下積みしてた時って、枕営業できるような年齢じゃないですしね。
だから、彼女たちは下積みの中で人間性がネジ曲がることもなく、逆に人に感謝し、人を楽しませることにひたすら努力し、みたいな態度を作り上げていったのだろうな、と思います。
適度にブサかったってのも、好都合だったんじゃないでしょうか。
中二病って言いかたありますけど、彼女たち中二になる前からアイドル稼業に足突っ込んでいますから、
反抗期虹が確立するために他人との差異を明確にしなくてはいけない、みたいな発想が芸能に入り込まないんでしょう。
「俺は他人とは違う、俺は俺であるために‥・」みたいな古典的なロックの歌詞と完全にずれた個性が存在しているのですよね。
そういうあり方が、
「俺の人生、これで良かったのかな?」と思っているおっさん世代、
私個人的に言うと、戦争に負けたあとの焼け野原を見るような目で世の中を見ているのですが、
60年代からの個性重視の文化って、正しかったのだろうか?と疑問に思っている人たちに、
Perfumeのエゴを一旦捨てた上で、生命感をありったけジタバタさせるみたいな表現って、心琴に響くんですよ。
どう思われます?