共感覚=退行=芸術活動
2009年09月09日02:22
母体にいる胎児には、安心と保護、栄養が完全に保障されているので、触覚、聴覚、視覚等の感覚刺激を受けたところで、それに反応して状況を改善させるために行動する必要が無い。
たとえば、道を歩いているとき、車の音が背後から聞こえてきたら、自分は安全かどうかを振り返って確認するし、頬にハエの音を感じたら、振り払おうとするだろう。
しかし音楽をゆったりした椅子に座って、目を閉じて聴いているとき、それは音楽を楽しみ一報通行の鑑賞を行っているだけで、それに反応して状況を改善させようという類の物ではない。つまり胎児の段階の感覚刺激の受け取り方は、安楽椅子に座り目をつぶって音楽を聴いている場合に近い、と私は推測している。
感覚刺激はただ存在するだけであり、それを感じこそすれ、仔細に分別する必要も無い。為に触覚と視覚の間に区別をつけていないだろうし、聴覚と味覚の間に区別をつけてもいないだろう。
私たちの外部存在は確かに明確にそれぞれ認識と別個に存在する。しかし、受けての立場からすれば、見る感覚も聞く感覚も神経伝達物質の脳内認識という点では変わりない。それはpc上のデジタル化されたデータとしてなら、写真と音楽の間に質の差が無くデータの容量の差だけがあるということ同じことである。
胎児に於いて、五感の区別が無いのなら、生まれたばかりの新生児にも区別が無いだろうと推測するのは妥当だ。
人は、自分の周囲の刺激に対し反応を重ねることで、それがどのような刺激情報であるかを的確に学んでいく。
しかし、何らかの間違いにより、視覚と味覚に区別をつけないまま大人になったとしたら、または視覚と聴覚に区別をつけられない大人に育てられたとしたら?
そのような人たちは、共感覚の持ち主とされ、研究の対称になっている。
アルファベットに味を感じる人がいる。Aは肉の味がして、Cは水の味を感じるという人など、冗談のようだが実際いるのだ。風景が音楽に聞こえる人。他人の声が、立体図形に見える人等。時には異常なことであり、時にはうらやましい才能でもある。そして芸術家と呼ばれる人たちには、この共感覚の事例が一般の人よりもはるかに高い確率で見られる。
そして、美味しい生活 青いラプソティー これら比ゆ的表現が詩・文学で多用されてきたことを考えると、普通の人でも、共感覚の根っこのような物を共有していると思われる。