坂の上のパフューム Ⅴ  かなしい歌  sad song

パフュームのすごいところってのは、フロントの女の子三人って、言葉で何も喋っていないんですわね。

彼女たちは役割を演じて、断片的な言葉に寄り添うように過剰なゼスチャーを私たちに伝えるだけ。

そして、厄介なことに、その任務に対して、彼女たちは人生かけている。


パフューム見ながら、おっさんとじいさんは、自分の過去を思いかえしていて、若いもんは自分たちの未来を思う、
不確定的で、言葉による意味づけの曖昧なメッセージ受け取るってことは、こういうことになるんでしょう。


きゃりーぱみゅぱみゅの『ponponpon』の歌詞は悲しい、ということを書いた時に、
既に、私の中では、ヴェルヴェットアンダーグラウンドとパュームという比較構図ができていたんでしょう。
そんで、今現在、
どう考えても、ヴェルヴェットアンダーグラウンドよりもパフュームの方が、上なんですわ。


いいのかな、こんなんで、と思う自分の半身がいるんですけど
パフュー無の方が上に決まっているやろ、と確信もっている自分の半身がまたいるんですわね。



ルーリードとパフュームのかすかなつながり。

ルーリードの代表作『ベルリン』は、このミュージカルを基にしている。
そんで、パフュームの振り付けの人は、『キャバレー』の振付氏ボブ・フォッシーを尊敬する人物として挙げている。

『sad song』

西洋人の場合って、ポップミュージックにおいて、自分たちの表現の軽薄さに嫌気が差した時にやることってのは、文学とクラッシックの伝統から、何かを拝借してくること。

最近のポールマッカートニーをはじめとする、あと十年くらいで鬼界入しそうなロック人のひとたちのライブって、大概、弦楽隊やオーケストラをバックにしてるような気がする。

じゃあ、日本人だったら、N響の人たちを一日当たりナンボで雇えば、それでいいのか、それで、深みが出るのかというと、
クラッシック音楽って、所詮、借り物文化だし、白人目線で見ても、あれって大仰でイタい側面あるはずなんですよ。

じゃあ、日本人がポップミュージックに対して、深み出すにはどういう演出すればいいのかというと、

パフュームを見習え、と。

パフュームには、日本のエッセンスが詰まっとるわい。

しかも、狙ってやってる的なわざとらしさが一切ない。

パフュームと比べると、ルーリードのセンスって、年功序列にあぐらかいたような、うざいところあるでしょ。

あなたが偉い人なのはわかるけれど、そういう演出されると、自己過剰評価でしょ、そして、私から見ると、うざいんですよ。