四つのパフューム

わたくし、自らを称して、YouTube派で動画主体の在宅パフュームファンなんですが、

当たり前なのかもしれませんが、
パフュームって
CDとPVとテレビ用のパフォーマンスとライブ用のパフォーマンスでそれぞれ印象が異なります。

そんなん、どのミュージシャンでも、CDとPVとテレビとライブで印象違うのは当たり前なんでしょうけれども、

パフュームの場合は、それら四つで、曲がそれぞれ別のストーリーを持っているように感じられてしまいます、少なくとも私にとっては。


両A面として発表された『ナチュラルに恋して』と、この『不自然なガール』は、物語がつながっているという指摘は、ネットの中でさんざんされておりますし、この二曲を音だけで順繰りに聴き続けていると、そのような解釈になるのは必然です。
おそらく中田さんもそのような仕掛けを意図的に作ったのだとは思うのですが、

でも、しかし、二曲のPVを順繰りに繰り返し見続けた場合、この二曲の間に具体的なツナガリが見えるでしょうか?



[MV] Perfume「不自然なガール」


映像化された時には、それぞれが個別の作品で、つながりのない二つの世界に見えてしまいます。

ナチュラルに恋してのPVの方が、PVが歌詞のストーリーとほとんど関係のないお買い物風景を描写しているだけなのに対して、
不自然なガールの方は、明らかに、歌詞の世界を映像で表しているのですね。
ある意味、これらのPVの場合、これらび歌詞はこの楽曲の中で完結している、そのように解釈してよろしいのではないでしょうか?



不自然なガールというのは誰なんだろう?と私はつい考えてしまうのですが、
雨の降っている日に、傘をさすのをやめて濡れているところを彼に見られたら、関心と同情を引けるのではないか?
そのように考える女の子が不自然なガールなのか?それとも、三角関係が存在して、意中の彼をたぶらかしている嘘つき女が歌詞の裏側に確実に存在して、その恋敵の態度が嘘に満ちているから不自然なガールなのか?という疑問が沸き起こります。

中田さんの歌詞は、大概、このような矛盾や曖昧さを解消しようという気がないどころか、開き直って使用して、聴く者の意識を混乱させるところがあるのですし、
言葉だけ追っていても、どっちの解釈が正しいというのは見えてきません。



私の解釈というか、私の人生の中になじんだ個人的論理によるならば、不自然なガールというのは、雨の日に傘を引っ込めて彼の気を引きたいと考えるような女の子のことなんですけれども。


そして、PVを見る限りにおいては、女の子が二重人格的に分裂している、
自分のウジウジした態度を不自然とみなすもう一人の自分がいる、
そういう風に思われます。

(このPVでの、そういう分裂症的な女の子に見えるかしゆかは、かっこいいな)


もし、そのような私の説がそれなりに妥当であるとすると、これ、相当に複雑な意味を持ったPVですし、

多くの人が指摘するところの
CDのりょうA面動詞の つながった世界という設定も、相当に複雑なものです。


このような複雑さをライブではどうしているのか?と、そういう点に着目してみたのですが、

ライブでは、そういう複雑さは、無視。

一曲のストーリーを重点的に語るというよりは、ライブ一つでどういう盛り上がりの波を作っていくかの方が大切、
そういうことなのでしょう。

中田ヤスタカ言うところの「鬼キャッチー」な曲であり、パフュームのPVのなかでも相当凝った部類の『不自然なガール』ですが、
東京ドームのDVDの中では、とりあえずヒット曲だから外せなかったけれど、さらっと流しました的な扱い。
クライマックスでもなんでもないところに これら二曲が充てられます。
とりあえず、あたらしいヒット曲だして、客引きつけようって感じで、勝負しているという感じは見られません。




ライブ盤の『不自然なガール』は、曲に合わせてどれだけ体が曲がるか、みたいな単純な演出にし立て直されてしまっています。



PVと印象の大きく異なる曲ということでしたら、

『ねえ』にしても、本来あった過剰な物悲しさは、排除されています。


[MV] Perfume「ねぇ」

一分十秒付近からの「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ」で、相手に触れようとし、互いに交わることなく相手を抱きしめようとして空を掴むだけのシーンですけれども、

PVの場合だと、三人が別個に撮影されて、それぞれが他のメンバーの存在にまったく気がついていなくて、それが、コミュニケーションが成り立っていない物悲しさを想起させるのですが、


ライブの場合だと、明らかに、そばに仲間がいて、みんながつながっていることが傍目にもわかる動きなのですね。


ライブだと、よほど、この曲を勝負曲にしようという思い込みと工夫でもない限り、あの本来の物悲しさって、再現できないもんなんですわね。

「ねえ」に関しては、物悲しくなくても、これはこれで別のハッピーエンドな魅力があります。


ライブにおける勝負曲は、どれにするか、ということを考えた上で、個々の曲の持つストーリーや情感は調整され単純化されるもののようです。
そういうこと考えると、ライブの曲順を決定しているあーちゃんは、そうとうな権限持っているんだな、と実感。

通常のミュージシャンと違って、パフュームは視覚に頼ることが多いですから、舞台設定によって視覚表現の条件が限定されてしまうので、

この手の縛りは、今までの通常のミュージシャンより大きいのではないでしょうか。

その点では、厄介な問題抱えていると言えるかもしれません。

『スプリングオブライフ』にしたところで、テレビ用の振り付けには、PVにあったはずの悲しみはバッサリ切り捨てられていて、めちゃくちゃハッピーで前向きな曲にし立て直されています。



どうなんでしょうね、
CDが一番好きだ、とファンがいったら中田さんは嬉しいもんなんでしょうか?
PVが一番好きだと言ったら、監督は嬉しいもんなんでしょうか?
テレビが一番好きだと言ったら、振り付けの方は嬉しいもんなんでしょうか?
ライブが一番好きと言ったら、パフュームは一番嬉しいんでしょうか?

それとも、そういうのどうでもいいことなんでしょうか?

わたし的には
不自然なガール』はPVが一番好きで
『レーザービーム』はテレビが一番好きで
ポリリズム』『マカロニ』『パピーラブ』はライブが一番好きですね。

CDはねえ、わたし、youtube派だから、嫌いじゃないけど、最高ではないんですね。