音楽の視覚化 『マカロニ』 パフューム
そもそも、五線譜ってものは、音楽を視覚的に表記したもので、
MPのヴィジュアリゼーションソフトとかパフュームとかよりも、まず、
五線譜のことを考えてあげるべきだと思うのですが、
高低差ある曲線って、なんでもかんでもメロディ持っているように見えてくるもんでして、
ダ・ヴィンチの絵画にメロディーが埋め込まれていると、
アホくさ。
そんなこと言えば、
穀物の生産高のグラフにもメロディが埋め込まれているわけです。
心電図。
これなんかだと、心臓の鼓動が、リズムとして書き込まれてまして、非常に音楽に近い。
ていうか、音楽って、ここから出来ているもんでなかろうか。
心臓の鼓動は、高低ではなく強弱で現れるリズムなんですが、
それを2Dで可視化すると、高低のグラフになりました。
そこに五線譜を重ねて、メロディーを写し取ってやると、
バクバク生きている心臓の歌を作ってやることができる、はず。
物語や詞には起伏があり、それは、潜在的にメロディーの可能性を限定している、ということをここ数日間考えているのですが、
例えば
この歌の中にいるはずの主人公の興奮物質の分泌量をグラフ化したとしましょう。
仮に、こんなふうになったとします。
これに、五線譜を重ねてメロディー化してやると、いい曲か悪い曲化は別として、歌の中の登場人物の内面に非常に強く対応しているんじゃないでしょうか。
そして、わたしは、メロディーというもんは、多かれ少なかれ、こういうもんで、こういう方式で詞と絡みついていると思うております。
ももクロの作曲者が仰ってましたけど、ステージ上での必死感を強調するために、わざと歌いにくい高音をたくさんまぶした曲を作っているそうですが、
高音って歌うのにエネルギー使うらしいんです。
金管楽器持ったことある人ならすぐわかると思いますが、
高音出すには、空気の出口を狭めて、そこに強い圧力かけて息を高速で吐き出す必要があります。
これは楽器だけでなく、発声でもおんなじですから、高音って疲れるんですわ。
興奮、気持ちの高ぶりは、高音の発声による過剰なエネルギーの放出と親和性が高い。
登場人物の興奮状態に高音を対応させていけば、心理的に共感を得やすい楽曲になるのではないでしょうか。
『マカロニ』でみてみると、サビの部分は音が高い。
「これくらいの感じで多分ちょうどいいよね」
このような箇所をそれまでより高い音色で歌うということは、
ここで本当に幸福を感じている もしくは 無理やりエネルギーを追加供給して自分が幸せだと思い込もうとしている
のどちらかだろうと勘ぐるのですが、
わたしは、無理やりそう思い込もうとしている女の子の歌 の解釈の方が好きですね。
そんで、サビの部分以上に
「もしも世界がいつか滅ぶなら、それまでずっと君を守りたい」の箇所は、もっと音が高い。
この箇所の音域が一番高いんですから、本来、ここに登場人物の一番のたかぶりがあるはずなんですが、
それが、よくわからないんですよ。
まず、これ言ってるのが、男の子なのか女の子なのかもはっきりしない。
主人公が女の子だとして、その女の子はマカロニとお散歩のことしかそれまで語っていないのですから、
いきなり世界が滅ぶとかさ、そういう脈絡のないところに話題が跳んでいる時点で、おそらく男の子がそう言ったんだろうな、と勘ぐるんですけど、
そんでも、それが正解ってわけじゃない。
こういう問題に模範解答ってないんですよ。
もし、あるとしたら、より正しい答えがあるとしたら、それはより多くこの楽曲から感動や喜びを引きだせる解釈のことであろうと私は考える。
それにしたところで、感動や喜びを消化できる心の胃袋が個人個人でまちまちですから、結局、正しい解釈というのは個人個人で異なっていて構わないわけです。
でもしかし言えることは、「あたしゃ小さい人間だから、これくらいの感動でちょうどいいのよ」みたいな発想でなくて、とことん感じ入ってやろうくらいに食いしん坊な心をもっていたほうがいいとは思いますが。
「名前を呼び合う時も少し照れ合うような、距離感のある恋人関係で十分幸せ」そういう歌詞なのに、
「もしも世界がいつか滅ぶなら、それまでずっと君を守りたい」的なこと言うと、それまでの関係って崩れてしまわない?とか思うんですが、
「もしも世界がいつか滅ぶなら、それまでずっと君を守りたい」
この台詞、本当に口に出されたのかな。心の中だけでつぶやかれた台詞なんだろうか?
女の子は距離感のある今の関係が好きなんだけれども、男の子の方は不器用でうまく喋らないだけで、実はものすごく熱い思いを秘めている。そして女の子はそれに気がつかないまんま。
そういう解釈でも、歌詞カード上は問題ないのでしょうけれども、
パフュームの振り付けを見ていると、その解釈では私は満足できないんですよ。
詞とメロディーはかなり単純な理屈で対応していると私は延々と書いていますが、
動作も、詞とメロディーに単純な理屈で対応していると私は考えておりまして、
音 メロディーが限定された音域内を循環している中で、キーンと高音にとび出す
詞 狭い檻に閉じ込められていた状態から、突き抜ける
それらは、視覚的には、このようなイメージ。
このライブビデオで一番それっぽい動作
「それまでずっと、君を守りたい」
ものすごい強い動作なんですよ。だから、この脈絡のない台詞が男の子の心の内の言葉で、語られることがなかったと解釈することが私にはできないんですわ。
ピーンと伸ばした腕と指先。
これだけ強い視覚イメージ見せられて、この気持ちが相手に伝わっていないって、思えます?
「どこか他人行儀で距離感ある恋人なんだけど、でもこういう関係の方が長持ちするんだよね」とか思って自己納得させていた女に、
いきなり、後ろから抱きついて
「それまでずっと、君を守りたい」とか、耳元で言われると、
女としては、膝から力が抜けてヘナヘナとなってしまうでしょ。
この場面の、のっちの様子見ていると、そういうストーリーしか思い浮かばん。
「これくらいの感じで多分ちょうどいいよね」って詞がなん度も繰り返されますけど、
これくらいって、どれくらいよ?とか思うんですが、
この場面の
前と後ろでは、「これくらい」の意味合いが微妙に違うんではないでしょうか?
前は、もっと硬かったんですけど、今はもう少し柔らかいんですわ。
まあ、この時間ずっとマカロニ茹でていたとするなら、その分だけ柔らかくなってて当然でしょ。
このビデオの動作に注目すると、
的な箇所がもうひとつあって、
それが、4分過ぎのところの
スタンドからマイクを外して、三人が一緒になるところ。
距離感のある方が恋人関係は長続きすると打算的に考えていた女の子が、
その距離を縮めて新しい二人の関係に踏み出した時に、守護天使が降りてきて、女の子を祝福してくれる。
私にはそう見えるんですよ。
この箇所まで動きを歌詞にそれなりに対応させて来たんですから、歌詞に対応する箇所のない強い動作を見せ付けられると、語られることのないストーリーが雄弁に口を開く、ように感じられる。
真面目に向き合い始めると、パフュームって凄いんすよ。
で、その凄さがどこから来るのか、女の子たちはどこまでわかってやってるのか?と考えるに、
たぶん、ほとんど自覚ないと思う。
もし、私が、あーちゃんとかしゆかに「あんたたちってこの曲で守護天使の役を演じているんだよね」とか言ったら、「???」でお終いでしょう。
脇役演じてる自覚ってあるもんなんでしょうか?
私が推察するに、彼女たちがやっていることは、この歌の起伏の中に自分たちの感情を溶け込ませることだけ。
むしろ、「名前を呼び合う時も少し照れ合うような、距離感のある恋人関係で十分幸せ」みたいな考え方にマジで共感できないと、パフォーマンス成り立たないんじゃなかろうか。
この楽曲のメカニックを客観的に理解したりすると、この曲の前半部分のパフォーマンスって嫌味ったらしいもんになると思います。
でも、無自覚でやってるとしても、振り付けと曲が作り出す起伏に同調してしまうと、女の子三人は、私が考えているような模様を結局は描いてしまうはずなんですよ、と思う次第。