全ての道はPerfumeに通ず

まずは、この話から。

>「つき」という言葉は、月が地球の付属物であるという意味で、
衛星の意味の表現として完璧であるので、
天体としての地球と月の関係性を表現してしまっている。



動詞を連用形の名詞化
(つまり、「ます」を取っ払った形にしたとき、名詞化されるということ たとえば)

終わり+ます
尾張の国は世界の終り の意味

越し+ます
北陸は、世界の果ての境界線を越えたところ

そういう語源とかかわる話だと思うのですが、


つき+ます

月は地球についている=衛星 というよりかは、

月は空にくっついたもの  私は、そのように思ってきました。


>これは、地動説の認識があった上での命名かなぁと不思議に思っています。


そんな風に、ナチュラルに思い込んでいた故、
地球が中心であり、その上に空があって、そこに月がくっついている。

わたし的には、科学的知識を教えられる以前の人間の頭の中ってこんなんだろうな、と。



そう思うと同時に、古代の役職の月読みの方々は、月食や日食のことを研究するにつれ、
地動説的認識にこっそりとたどり着いていたんじゃないか、そんな気がします。

少なくともギリシャ時代には、地動説のこと理解した人たちがいましたから。

人間にとって 火とか日ってものすごく大切なものですから、
空の上でお日様が煌々と輝いているとき、

あの存在って、自分が今立っている地面、地球よりも凄いんじゃないか? そんな風に思うひとがいるのも、けっこう当然なことのように思われます。



こんなことつらつら考えていると、

私たち人間って、
いつの時でも、
自分たちの信念の半分くらいしか真に受けていない、
そんな気がします。

そして、それってものすごく健全で、
自分の信念を100%信じた人間って、歴史上に災厄しか残していないんじゃないか?
(ちょっとわかりやすすぎる結論ですが)