『マンガ日本の歴史』 日本史上最初にして最大のキャラクター卑弥呼を描いた第2巻!
石ノ森章太郎の50巻以上ある長大なマンガ日本の歴史、 キンドル試し読みで第一巻をタダ読み。
思ってたより面白く、しかも大抵の図書館にはこの全館がそろえてありますんで、第二巻以降はただで借りまくりました。
似たような権力争いが繰り返されるだけの平安時代末期あたりから、読んでいて少々だれてきました。時代が今に近づくにつれ歴史の記録が増え、歴史上の人物が増えてくるのですから、『マンガ日本の歴史』でも時代を追うごとに個々の出来事人物への食いつきがどうしても弱くなるのは否めません。
それらとくらべると縄文時代や弥生時代は、適当な架空のキャラをでっちあげてじっくりと当時の生活を描くことができるので、ずっと読みごたえがありました。
第2巻、「日本史上最初にして最大のキャラクター卑弥呼を描いた第2巻! 」とのあおり文句ですが、
日本史上最初にして最大のキャラクターって言い草が少々大げさであるやろ、卑弥呼に対して過剰な思い入れだろそりゃ、とは思いますが、
実のところ、卑弥呼レベルの知名度ある日本の歴史的女性って北条政子くらいしかいなくて、それゆえ昨今のおばちゃん向けの大河ドラマにふさわしい主人公がなかなかいなくて、それ以外の方々は女としての務めを粛々と果たし歴史家の視界の外で生きてきたわけです。
また、そういうこと以外に、もし邪馬台国が大和盆地にあったとするならば、
卑弥呼は天皇家の先祖である可能性もあり、さらに言えば、天照大神のことであるかもしれず、
もしそうであるとするなら、
死後に神格化され神社にまつられた人物は多くいますけれども、ここまで神格された人物も卑弥呼以外にいないということになります。
そう考えると、日本史上最初にして最大のキャラクター卑弥呼!というのは結構的を得た言い方なのかもしれません。
そんな卑弥呼ですから、映画の中で演じられる場合は有名な女優のみ。
卑弥呼は邪馬台国の女王になった時には既にあんまり若くなかったらしいとのことで、演じる女優もあんまり若くない人たちばかり。
現代の能とでもいうべき演出スタイルで、それゆえメイクも能面じみていますが、まあ、これでは八墓村の祟りです。
こちらは高峰秀子。手塚治虫の『火の鳥』の古代編の実写版です。
鉄腕アトムの主題歌って谷川俊太郎作詞なのですが、そういう繋がりなのでしょうか、この映画の脚本を詩人が担当されています。
脚本って映画の設計図みたいなもんですから、なぜそのようなものを彼に任せたんでしょう?素人が四階建てのアパート設計するのと同じくらいリスキーなことと思われるのですが、どうでしょう?
このポスターからも耐震性の欠如した危険なにおいがプンプンと漂ってきます。
こちらは天照大神を演じる原節子。『日本誕生』より。主役のスサノオは三船敏郎でした。
ちなみに特技監督は円谷英二。この映画でヤマタノオロチを撮影したことが後のキングギドラにつながりました。
精神ON状態になると、目が怖い。
人目をはばかって暮らし、占いの結果を弟に伝言するだけで邪馬台国を統治したらしい人物ですから、卑弥呼のダンスする場面は描かれていないのですが、
トランス状態に精神を落とし込んで、信託を受けるのですから、おそらくは占いの最中には踊っていただろうなと思われます。
こちらは卑弥呼の後継者の壱与13歳。現在の巫女の衣装とほぼ同じに描かれています。
13歳の少女が踊るだけで一国の政治が動いたってのは、まあ確かに、夢のある話です。
石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』の中では、日本人の踊る姿が頻繁に登場します。今現在の日本人は南米とかインドの人たちと比べるとあまり踊らない民族なのですが、
この漫画の中では各章ごとに必ず1シーン以上は踊るシーンがあります。登場人物が目まぐるしく変わる中でマンガとしての統一感を醸すために、踊るシーンを何度も描く方針のようです。
その代わりといっては何ですが、歌ってマンガ上では表現しよう無いですから、『マンガ日本の歴史』読んでると、
「日本人って有史以来歌わずに生きてきたんだ」と誤解してしまいそうになります。
まあ、それはいいとしまして、
卑弥呼の時代には、当時のダンスがどんな風だったのかをスマホ撮りしてネットにあげてくれるような奇特な人もいなかったので、
当時のダンスって今も伝わる田舎の伝統とか儀礼の踊りとか、古典芸能として長年固定されてきた踊りから推測復元することしかできないのですが、
現代に伝わる神社の巫女の奉納の舞って、見てて眠くなる。たぶん踊っている人も眠くなるはず。なにより、この振り付けでは心躍らんですし、一国を統治するにはカリスマ性不足。まあ、動画で踊っている方々には何ら落ち度はないのですけれども。
石ノ森章太郎のマンガ的には、当時はもっと快活なノリで踊ってたんじゃなかろうか、とのことらしい。
ちなみにこちらはインドの踊り。
インド人は、いまだに縄文式土器みたいな食器で毎日カレーばかり食べている人たちですけれども、そんなしょぼい食文化と比べて音楽とダンスの伝統はひたすらすごい。
インド人がいつごろからこのノリで踊るようになったのかは知りませんが、
食文化の発展に専心し音楽とダンスをおざなりにした中国の場合ですと、
シルクロードから西域文化が流入した時代には、踊り子たちはペルシャ・インド系の人たちが担うようになったのもむべなるかな。
おそらく、現代の中国のキャバクラとかで演じられているらしい唐王朝時代のダンスの復元のようですが、
かなりいい加減な復元のようで、相当に現代風です。
そして、インド人と比べて、中国人はダンスを舐めてるダンスに向いていないとのがよく分かります。
ちなみにこちらは珍品、巫女の姿でPerfumeを踊る人たち。
これ、意外に面白い。
現代の退屈極まりない巫女の奉納の舞と比べると、こちらはずっとインドの伝統的舞踊のスタイルに近い。まあ、『クリンクリン』の振り付けにインドが入っているってのはありますけれども、それ以上に動作目線に対する言語的意味付けの高さが共通しているようです。そういやぁ、インドの伝統的舞踏も寺院への奉納の為のものですし。
インド人の食生活は縄文時代レベルとか、中国人はマスゲーム以上のダンスができないとか、ひどいこと書いて来ましたが、
じゃあ、日本は、というと、
宮廷用とか奉納用とかの儀式ダンス、能とか歌舞伎とかの観賞用ダンスは、
まあ、見ててつまらないです。
日本人のダンスの偏差値も、隣の超大国に倣って割とレベル低い方だと思うのですが、
ただし、儀式用観賞用のダンスと、一般人が楽しむためのダンスって、同じものではないわけでして、
Perfume的にいうと、のっちの踊りが観賞用だとしても一般人はあ~ちゃんにPTA踊らされてへらへら微笑んでいるわけです。
観賞用のダンスではなく一般人参加のダンスですと、フォークダンスをキーワードで検索することになるのですが、
これ、フランスですけれども、んな大したダンスやってるわけでもありません。日本の駐車場の盆踊り大会バカにする資格ないレベル。
ここで踊ってるのはおっさんおばはんの画面からは据えたチーズのにおいが漂ってきますが、本当は適齢期の男女の合コンとしてフォークダンスしてたわけで、
合コンのドキドキ感を引き算するとフォークダンスっていったいどうなるのだろう?というと、こうなるのですが、
まあ、考えてみりゃ、一般人は日々農業に汗して年数回の祭りの時だけ踊ってたのですから、踊り下手なのあたり前。世界中でフォークダンスってこんなレベルなのは仕方ないとこ。
それにブラジル人にしてもインド人にしてもみんながみんなダンス大好きってわけではないですし。
ちなみにルネサンス期に始まる西洋バレエも当初はこんなものだったらしいです。不器用な手の動きと足踊りに由来する頻繁なポジションチェンジ。それを2階の桟敷席から王様が眺めていたとか。
ちなみに、盆踊りをロボットにやらせてみたという動画。
日本の盆踊りは手踊りなので、ろくすっぽ歩行のできないロボットでもちゃんと踊れるようです。
日本の盆踊りの動画を探しますと、意外に自分がイメージするまんまの盆踊りが見つかりません。
郡上八幡とかおわら風の盆とかの動画を見ても、なんかピンとこないのですが、
東京音頭には、私のイメージする盆踊りのすべてがありました。
伝統的な盆踊りには神社への奉納の意味があり振り付けが少々堅苦しかったりします。さらには、夜通し踊るためにBPMは低めに設定されており、「こりゃ太極拳か」みたいなスローな盆踊りもたくさんあります。
それらと比べて東京音頭って、いわゆる盆踊り大会のために昭和になってから作られた楽曲で、オールナイトで踊るわけではなさそうですからBPM割と高いです。
盆踊りの本来の存在意味の内の70%は適齢期の男女の合コンだったとすると、こういう動画の踊り姿を見て
「お兄さん粋だねぇ、濡れてきちゃうねぇ」ってなるんでしょうか?
日本舞踊的な身のこなしで流麗にオバQ音頭踊られても、性欲減退、出生率下がるだけのような気がするのですが、
「いや、それは文化の違いだろ。昔はこういうのがセクシーだったんだ」とか文化相対主義者なら即答するでしょうけれども、
いや、このオバQ音頭の振り付けに性欲刺激する要素ってないでしょ?まあ、江戸時代って生まれた子供間引いていた時代ですから、性欲減退させる盆踊りには社会的実利があったのかもしれません。
天照大神が岩戸の奥に引きこもり、この世から太陽がなくなったあと、アメノウズメが全裸に近い姿で踊ると、周りの神々も大いに盛り上がって、
「はて、何を楽しそうに外では盛り上がって…」と岩戸の隙間からのぞいた天照大神を引きずり出して云々かんぬんというのが古事記の記述ですが、
日本の史書に最初に登場するダンサーはヌードダンサー。
生産性の低い古代社会では産んでも産んでも子供が死んでいく時代で、人口の増減なんてお天道様次第。下手すりゃ冷夏の長雨で集落全滅みたいなこともあったようです。
だから性欲減退させる盆踊りって社会的需要無かったんじゃないか、ようにおもわれるのですが、
こちら、『バリのセックスダンサー』とおどろおどろしいタイトルですが、
推測するに、町内会の奉納舞踊に雇われたダンサーが余興でゴーゴーバーの踊りをやりだしたらむちゃくちゃ盛り上がった、んなとこでしょうか。それ以外にもパンチら上等で踊るバリのトラディショナルなダンサーたちの姿。
なんかこれ、AKB48がテレビでやってることあんまり変わりません。
ていうか、天岩戸のダンスにしたところで、こんな感じだったんでしょうか。
まあ、現代の中国でも葬式の参列者を増やすために、火葬場の横でストリップダンサーに躍らせることがあるそうですが、
こういうのってわりに普遍的なことのようです。
こちら、魏から頂いた銅鏡を使ってキラキラパフォーマンスするシーン。
「日本の天皇家って過去に於いて中国に臣下の礼をとったのだ」となっちゃうとまずいので、卑弥呼が天皇家の先祖という話はたとえ本当だとしても大っぴらにはならないのかもしれません。
それはおいとくとして、このシーン、Perfumeの『Glitter』の鏡でピカピカさせるシーン彷彿させるというか、
あの曲の最初のお祈りの振り付けも、巫女の奉納の始まりの振りとほぼ同じですから、
もしかするとこういうところから元ネタ拾っていたのかもしれないですね。
つけたし
石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』って、目まぐるしく登場人物が変わります。一貫しているのは舞台が日本であるという点だけ。
だから、永続する日本の風土を表現するため、民衆の根源的なエネルギーの流れの表れとしてのダンスの描写が随所に挟まれるのでしょうが、それ以外に、
月、雲、木などの自然の描写が幾度となく繰り返されます。
そんな中の一つですが、
これって、細田守のアニメに出てくる雲とそっくり。
『時をかける少女』
トキワ荘時代に隣人だった藤子F不二雄の作品より。
なんか石ノ森風に雲描いてみたっぽい。でも、石ノ森ほど雲に思い入れないのは一目瞭然。