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坂の上のパフュームⅠ  芥川龍之介『手巾』 とパフューム

芥川龍之介『手巾』

要約

法学部の教授が、なんともなしに演劇関係の本を読んでいる。
来客が来て読書中断。
そして、その来客の態度に、教授はえらく感動してしまう。
感動した気分で、再び読書をはじめると、演劇の本に、その感動を反駁する内容が書かれていて、実に嫌な気分だ…。



法学部の教授が文学系の本を読んでいるという、この短さの短編では、なんともかんともご都合主義な設定なんですけれど、
芥川龍之介って、文章うまいんですか?
とつとつとした、外国語の翻訳調の文章で、彼は英文科なんですけど、
仏文とか国文の人たちと比べると、じつに、虚飾の少ない淡々とした文章でして、


「先生の信ずる所によると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、可成顕著な進歩を示してゐる。が、精神的には、殆、これと云ふ程の進歩も認める事が出来ない」

この人、読点多くない?英語やってる人間の文章って読点多くない?
まあ、それはいいとして、
この短編1916年に発表されたものですが、明治維新から48年後で、第一次大戦の好況の時です。

最近五十年精神的に何も進歩していないぞ!って、今日でもいう事が可能だとは思うのですが、

そりゃねえ、携帯とかPCの性能と対費用効果は毎年向上しますけど、人間の脳みその容量なんて20万年変わってないですし、滅んだはずのネアンデルタール人の方が容量多いですし、ね。


「この50年で、物質の点ではともかく我が国の精神は何も進歩していない」
こういう口聞いてしまうと、失笑の対象になるべきなのだな、と。

「近頃の若者は、なっとらん」という中高年と同じく失笑の対象になるべきなのだな、と。
ほんと、むかしから、古代からおんなじこと言っている人っているんですわ。




正直、こんな私の文章読んでいる暇があったら、芥川龍之介の『手巾』を5分ほどで読んでいただきたいのですが、

読まれました?もう読まれてます?


そんなら、


自分の息子が死んだことを学校の恩師に報告するときに、顔はへらへらしてるんですが、テーブルの下ではハンカチを引き裂かんばかりにしている、という、
顔で笑って、心で泣いて、の在り方。「武士は食わねど高楊枝」ともうしますか、武士道的精神の現れとでも申しますか、
西洋にはそういうもんはない。もっと直情的で、喜怒哀楽をはっきり表し、とにかく自己主張が激しい。
そういう文化をコピーしても、日本人は、コピー猿に過ぎない。
これだよ、これ、武士道の精神だわね。

と大学教授が感動していたら、
読みかけの演劇の本に「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味と名づける」と書いてあった。

つまり西洋人の立場からすると、「顔で笑って心で泣いて」なんて行動様式は、西洋にもあるわさ、そして、俺たちはそれをクサいと言って拒否してきたんよ、
ということらしい。


つまり、日本人の特性、日本人の美徳というべきものは、西洋人だって思いつくことだし、場合によっては、否定され拒否された可能性さえある。


西洋のロック文化が個人主義トップダウン文化だとして、
パフュームが、小集団主義の草の根文化だとして、

私は、パフュームが西洋のロック文化の猿真似から脱却したことを大いに称揚しておりますけれども、

強い自我の確立を説くロック文化って、そんなに全否定されるべきものなのだろうか?と今になって思うのですね。

今後パフュームみたいなものが世の中の一定のシェアを占めるようになると、
孤高のロックカリスマ的な在り方が再評価される時が来るかもしれない。
「お前は間違っている。俺は怒っている。俺は死ぬことなんか怖くない」こういう主張って、商用で水で薄めて叫ばれるから、ギャグのネタになるわけで、本気で言っていると、結構すごいことですよ。

誰に対しても謙虚で、自分の小ささを自覚して、とにかく責任感を持って精一杯がんばって、客を大事にして…
そういう態度は、何も間違ってはいないのですけれども、
よくよく考えてみると、良く出来たサラリーマンの倫理観と何も違わないのではなかろうか?




冒頭20秒の「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ…」の箇所の明らかに過剰な振り付け、デートの行き先どうしようと云う歌詞にも拘らず暗い曲調、暗い色彩と表情。

パフュームの表現に特徴的なズレから生ずる「行間」の利用なんですが、
パフュームの表現は『手巾』のなかのテーブルの下でハンカチを引きちぎらんばかりにしていた婦人の態度と何が違うんだろう?
確かに日本人的には泣けるし、妄想スイッチを強く押されるんですが、
芥川龍之介の短編で紹介されるストリントベルクの作劇術で批判的に「臭味」と言われるものと何が違うんだろう?
と考えると、よくわからなくなってきます。



パフュームの各工程における丸投げてきな分業体制の中で、たまたま出来上がってきた表現スタイルだと私は思っているのですが、
これ、意図してやると臭いんでしょうか?意図しなかったら、立派なんでしょうか?

でも、もう関係者は、このへんのことは分かっていると思うから、半分以上は意図的だと思うんですけれども、



しかし、西洋人は一概に、この手のやり方を拒否して放棄してきたというわけではないんですね。
映画見てりゃ、こんな演技、この手の演出法いくらでもありますよ。


パッと見ただけで、意味バレちゃうような二重の演技するからクサいと言われるわけで、役者によって表現された無意識を、観客が無意識的に感じ取るという場合、ものすごい説得力持っているもんなんです。
当然演出する人はそのへんのことわかっています。

パフュームもそういうもんだと思いますけど、

そんでも、この芥川龍之介の短編、小骨が喉に刺さったみたいな後味の悪さがあります。気にしなけりゃいいんだろうけど、気になりだすと夜も眠れない、みたいな。