目からウロコが落ちる

車の運転をするようになって、コンタクトレンズを付けることが少なくなりました。

コンタクトレンズのせいで、目が無性に充血したり痒くなったりということが、車の運転中に生ずると、非常に危ないんです。

そういう理由から、メガネかけていることが多くなったんですが、


コンタクトレンズというのは、よく見えるようになる為に装着するもんですけれども、逆にコンタクトレンズゆえに見えなくなる状態というもののあるゆえに、

目からウロコが落ちる、つまり、目に異物が挟まっていたのが外れることにより、物事の姿がはっきりとわかるようになる、といういみをあらわした言い回しには、
わたしは、ものすごく自然なものを感じておりました。


それが、コンタクトレンズを装着することがほとんどない生活を送るようになりますと、ある日、ふと気づくのですね。

「目からウロコ、って、目にウロコ入れるやつなんかいるか?目にウロコが入る場合なんかあるか?」

ないでしょ、どう考えても。
誰が、この奇妙な言い回しを思い立ったんだろう?コンタクトレンズの発明される前に、ウロコでも入れて視力の矯正を試みた人でもいるってんでしょうか?

わたくし、海沿いに住んでおりますんで、鮮魚を捌くことが多いのですが、全ての魚にウロコ付いているわけでもありませんし、冷蔵庫が普及するまでは、鮮魚食っている地域なんか限られておりまして、港の作れない地形の海沿いや内陸数十キロの土地では鮮魚ではなく乾魚食べていたわけでして、普通乾魚って、ウロコ落としてあるもんでしょう。ウロコつけたまま乾魚にするとしても、そういうウロコってもう透明じゃないですから、
「目からウロコ」という言い回しにリアリテイー感じるほどの透明度はないはずです。

言葉の語源が気にかかる年齢になった頃には、もうコンタクトレンズを使うようになっていたので、今の今まで気にもとめていなかったのですが、

「目からウロコが落ちる」という言い回し自体が、相当に変だ、ということに気がついたこと自体が「目からウロコ」

まあ、この話し、途中でオチが読めてしまいそうですけれども、


Perfume聞くようになって2週間目なんですけれども、一体今まで、目にウロコ何枚入っていたんだろうというような発見に次ぐ発見ですわ。

近年、個々人の趣味が蛸壺化しており、社会全体のブームがほぼ無くなってしまったと言われておりますけれど、

それで、つい2週間前まで、Perfumeについてほとんど何も知らなかったのですが、

よくよく考えてみると、
わたし、
浜崎あゆみの歌って、一曲も知らないんですね。
彼女のキャリアの全盛期に、外国にいたって事もあるんですが、そんでも一曲も知らないんですよ。
にも拘らず、歌番組やCMで彼女の歌っているところを見たことはありますし、また、街で流れているのを聞いたことは絶対あるとは思うのですが、
彼女の歌一曲も知らないんですよ。
彼女の整形された顔、メイク、声、歌詞、メロディー、曲の音構成、それら全てが私に「無視しろ、覚えるな、聞き流せ、右から左」と命令しているかのようです。
絶対聞いたことあるし、彼女の歌についての漠然としたイメージは確かにあるのですが、「じゃあ、ちょっと、サビのとこ歌ってみ」と言われると、全然できない。


同時期に人気だった、宇多田ヒカルについてはほとんど知っているので、それを考えると、浜崎あゆみブラックホールぶりっていうのは、ネガティブな意味ですごいことだなと感ぜずにはいられません。

日本のCDの歴代売上の第三位の浜崎あゆみで、わたしにとってはこんなものなんですが、

4位 ミスチル
6位 glay
8位 ZARD

についても浜崎あゆみと同様、ほとんど何も知りません。

2位 サザン
5位 ドリカム
7位 ユーミン
10位 チャゲアス

この辺だと、多少は知っている、多少は好意を感じる程度ですが、アルバム通して聞いたことなんてありません、買うはおろか、シングルいちまいレンタルしたこともありませんし、歌番組に出ているからって、特別にテレビ付けることさえしたことがありません。

このランキングを20位あたりまで引き伸ばして考えてみても、私にとってだいたい似たようなものです。

総売上の上位にランクしているので、私が好きなのは、宇多田ヒカルだけ。

我が身を振り返ってみると、近年個々人の趣味が蛸壺化して、人と共通の話題がなくなってきている、とは言われますけれども、わたし自身は、相当に筋金入りのマイブームの人であり、よくよく振り返ってみれば、幼少の頃からずっと蛸壺化した趣味のマイブームの人だったのだなと認識させられました。



 

共感覚と料理と それからPerfume

世界最初のオーケストラはトルコの軍楽隊、という説がありますが、

世界初とか歴史上最初ってのは、大概、言ったもん勝ちですから。こういう言ったもん勝ち的なことは、イギリス人と中国人が得意です。


モンゴルが日本に攻めてきたとき、銅鑼や爆薬を使って馬を怯えさせる戦法を取りました。

歴史的には、相当の昔から音楽を兵器として用いることは行われていたのですが、

モンゴルと同じ騎馬民族のトルコが16世紀17世紀にウィーンを包囲したとき、オーストリア人は、相当にトルコの軍楽隊の音を聞かされ、その影響があったのでしょう、クラッシックの大仰な表現には、音楽兵器のルーツがあるのだろうと私は考えております。

ベートーベン、大仰なんですが、『運命』という交響曲、時代の精神とそれに関わる個人の運命みたいなことを表現しているのでしょうが、かなり抽象的なので、なんとでも解釈できそうです。

それと比べると、クラッシック音楽が「古典」と崇められ、そして一般人から見捨てられてしまう頃に流行った「交響詩」というジャンル、
物語を音楽で表現しようという試みなんですが、
私にとっては、俗っぽい名人芸にしか思えないんですね。
言葉で表現するはずの物語を、音という違うものを使ってどこまで表現できるかという、異種格闘技のようないびつなものにしか思われないのです。
「なんで、素直に、言葉で表現しないのよ」とか思うんですが、
案の定、これ以降クラッシックは一部の「文化的エリート」、まあ、私から見ると「鼻持ちならない権威主義者」だけのものに堕して歴史から消えていきます。


しかしながら、「物語により流れる視覚イメージを音だけで表そう」という、共感覚的な試みというのは、非常に面白いテーマでありまして、
100年前のクラッシックの方々が、今になって思うと、低俗な名人芸にしか思えないというのは、彼らの共感覚に対する認識が稚拙だったからだろう、とわたしなんかは思っています。

共感覚
簡単に言うと、映像を音楽に簡単に脳内変換できる能力で、それら五感の区別の曖昧な人たちは障害者のようでもあり天才のようでもあります。
相当たくさんの音楽家の名前が列挙されておりますが、ポールマッカートニーやモーツアルトもそうだったと私は聞いたことがあります。

マイルス・デイヴィスの代表作『kind of blue』彼は音に色が見えたそうです。

わたくし、音と映像が脳内変換できる人間ではないのですが、それでも、マイルス・デイヴィスはこういう映像を伝えようとしているのではないだろうか?ということはわからないでもない、というか、分かるような気もするのですね。

憂鬱のことを、英語でblueと表現しますけれど、そのことについては、たいていの人が納得しているのではないでしょうか、
「音に色がついて見える」という人は少数派であるとしても、言われてみればそんな気もするレベルでは、みんな感じているのだと私は思います。大体、音色という単語もありますし。
黄色い声、腹黒い、赤の他人、なんでそれを色で表すのよ?的ないいわましはいくらでもあります。


わたくし、ある時に気がついたのですが、味覚というのは実は単純な識別能力にすぎず、甘い、酸っぱい、塩辛い、苦い、程度の区別が出来るだけであり、
美食の世界というのは、ほとんどが嗅覚、触覚、視覚、聴覚等のその他の五感に依拠しているのですね。




以下、共感覚について小学生に国語を教える風に語ってみる。

問題一 下の文を読んで、よく書けていると思う部分を抜き出し、その理由を書きなさい。

 食通で知られた作家の池波正太郎が子供の頃、正月の楽しみは、11日に祖母が橙色の汁を茶碗に絞り、たっぷりと砂糖を加え、熱湯をさして、「さあ、風邪を引かないようにおあがり」と言って出してくれる飲み物だったという。

オレンジでもない、みかんでもない、橙の汁の風味はもっと濃厚で、酸味が強く、香りも素晴らしい。これを泥行火へ足を突っ込んで足を突っ込んで、ふうふう言いながら飲むと、小さな体にたちまち汗がにじんでくる。その暖かさ、そのうまさはなんともいえぬ幸福感を伴っていた。



もし私が学習塾でアルバイトしていたとき、こういうノリで授業してた。

「おまえら、文章の法則教えたる。文章で一番大切なのって、どこよ?・・・そう最後の文章。で、どうして文章の最後が一番大切か分かるかね?何で?
それは文章の最後が一番大切だと普通の大人が思っているからよ、それだけ。いいかね、べつに文章のどこが大切でも構わないのよ。そんなの書く人の自由だわさ。でもね、文章の最後が一番重要だというのは社会の偉い人たちのルールなの、実は。
おまえさ、回転寿司行ってチャーシュー面くださいとか言うか?トイレの水詰まったらNTTに電話するか?しないだろ、そういうことするやつ身近にいたらヤだろ?それにフランス料理屋のお勧めメニューがてんぷら定食だったら、食いたいと思うか?思わんやろ。
仮におまえらが50才になったとして、そん時までに今までの何倍本を読むことになると思う?10倍?100倍?もっと、か?
 で、そういう風にたくさん本を読んできた大人が、一番大切なことは、最後の文章に書いてあると思い込んでるわけ。ハンバーガー食いたいときはマックに行くとかと同じなのよ。お前らもいい作文書きたかったら、最後の一文バシッと決めなさい。いいね。

で、最後の文章だけど
「その暖かさ、そのうまさはなんともいえぬ幸福感を伴っていた」
この文章で一番大切な言葉・単語ってどれよ?
この作者、何を言いたいの?答えてみい。水森君よ、何についての文章よ?

‥・うまさについて、かぁ、どうして?・‥最後の文の主語だから? …30点。
ほかには? …幸福感?どうして?…最後の文の述語だから? まあ、・・・60点。
全部足しても100にならんやろって? 残りの10点は、暖かさ。 
この文の主語って、暖かさとうまさの二つなんだわ。で、述語が幸福感。
一番大切なもの何って聞かれたから、一つだけ答えたのに、答え三つっておかしくないですか、ってか? ごちゃごちゃうるさい。一番大切なもの三つあって何がおかしい? な、そうだろ、堀河君よ、一番大切なものって、誰だって三つくらい持ってるよな。一番好きな人だって、三人くらいいるよな。で、お前の一番好きな人って誰よ? 

じゃあ、そしたら、この文章の中に幸せなものっていくつ書かれている?
 なんかよく分からんけど、この橙色のジュースがまず一つだわな。其れは誰でもわかるのよ。で、それ以外?

 一つは、お正月。小野寺君、正月好きか?・・・まあ金いっぱいもらえるからな。で、昔の人は今の人よりもっと正月好きだったのよ。別に今の人よりたくさんお年玉もらってたわけじゃなくて、休みが正月と盆しかなかったんだわな。そりゃ正月たのしいさ。

 それから、泥行火。昔の人の暖房器具だわさ。昔の家って、エアコンなかったから今より寒かったんよ。無論床暖房、まきストーブもないし、お寒い限りです。そんな時炭かなにかで暖める行火って、うれしかったんよ。あったかい物ほとんど無いときに、ちょっとあったかい物あると、すごくうれしいんだわ
で、それでぬくぬく暖まってオレンジ色のジュースもどき飲んでると、汗流れてくるんだってね。これすごい贅沢なのよ、分かる? 浅沼君、お前さ、 真冬の一番寒いときに、海パン一枚で室温32度に設定したら、母親からぶっとばされるだろ? もったいないことすなーって。

 まだもう一つあるんだわ。幸せを感じさせてくれる物が。 ・・暖かさ? 残念、実はそれ泥行火のことなんだわ。分かる人いる? どうよ鶴羽さん、優秀なあなたでも分からない?
 実は、おばあさんなんだわ。おばあさん好き?そのおばあさんがさ、冬の一番寒い頃に、みかんか何か絞ってジュース作ってくれるんよ。手絞りでめんどくさいし、指も冷たいし。で、おまえは泥行火でぬくぬく暖まってるだけ。これ幸せでしょ。
 この中でおばあさん二人とも死んだ人いる?そうか、残念だったなぁ。でもね、ここにいる人全員のおばあさんとおじいさんって、みんないつか死ぬのよ。それからここにいる全員のお父さんとお母さんも その内死んじゃう。それにいつかはここにいる人みんな死ぬんだわ。
 それはいいとして、大人になって子供の頃におばあさんのこと思い出すと、幸せな気持ちになるもんなのよ。風引いたらだめだからって、寒い中わざわざジュース作ってくれるわけでしょ。ありがたいわさ。大人になったら人の面倒見るばっかりで、面倒見てくれる人ほとんどいなくなるでしょ。なんか疲れた日に、そういうこと思い出すと、楽しくなってくるんだわね。

小学生あいてならこの辺で止めておきます。大人が高校生だったら以下の様な内容が付け加わります。

「 まず、この池波正太郎についての文章から直接味覚を描写している箇所を摘出してみよう。

・たっぷりと砂糖を加え、
・風味はもっと濃厚で、酸味が強く、

 実はこれだけしかない。オレンジ、みかんに味が似ている、という記述から、大まかな味が推測できるので、それも直接味覚を記述した箇所とし、その三要素だけで文章を組み立ててみると、

 『ジュースには、砂糖がたっぷり加えられており、オレンジやみかんよりもっと濃厚で、酸味が強い味だった』

 逆説的に聞こえるかもしれないが、味覚表現だけで、味を表現しようとすると実になんとも味気ないものになる。

 また、これは味覚表現に限らない表現技法だが、相手が見聞きしたことの無い物を説明するときに、相手が既に知っているものをたたき台として提示し、それに細かな修正を加えてやる方法はよく使われる。

・ 空飛ぶ以外はスーパーマンと同じことが出来る人
常盤貴子の顔幅を5センチ狭くし、目をもう少し小粒にしたような美少女
・ 青蛙の味は、白身魚と鶏肉の中間のような味で非常に淡白だが、雨上がりの雑草を刈り取った後のような香りが気に入らない人もいる。
こういうやり方によって、相手にかなり明晰なイメージを伝えることが可能になる。

この、池波正太郎の場合は、オレンジとミカンがたたき台として非常に上手く機能している。


では、味覚以外の感覚についての描写箇所を抜き出してみよう
視覚に関わる箇所 
・橙色、オレンジ、みかん という同傾向色のグラデーション
嗅覚に関わる箇所
・香りも素晴らしい
触覚に関わる箇所(主として温度に関する)
・熱湯
・ 泥行火
・ 汗がにじんでくる
・ その暖かさ 

既に分かるとおり、味を表現するには、味覚以外の感覚の方が重要なのである。本当のところ、味は食べて見なければ分からない。表現する側に出来ることは、それと似たような別の物を使って表すことでしかない。

 味覚とは、本来口に入れる物が、毒か無毒かを判別する為の機能であり、うまいまずいは二義的なものに過ぎなかった。腐っているか毒なのかというネガティブな方面については活き活きと味覚は反応するが、うまいのか、そしてどのようにうまいのかということに対しては、実のところそれほど敏感な機能ではない。

味わうとは、五感全ての総合的体験ということもできる。だが、料理をただ感覚的なものとして捉えた場合、本当の料理上手にはなれない。
なぜレストランが内装にこだわるのか、なぜ母の日に子供が作った料理に母親は感動するのか、なぜ旅の記憶を思い出させる料理は美味いのか?
私たちが美味を感じる認識の過程には、料理に潜むストーリーという知的な作用が働いていることを理解すべきである。
だから、料理上手は常に、料理の中にストーリーを盛り込む。


Perfumeが人を泣かすのは、最初のライブの客が五人のうち三人がサクラだった。そして下積みを吸うねん経て東京ドームで5万人ライブを実現するというサクセスストーリーを音楽の中に重ねているから、というのは間違いないでしょう。

私たちは、音楽の中にストーリーを盛り付けられ、気づかぬうちにまんまとそれを飲み込まされています。

そして、これはPerfumeに限ったことでなく、ビートルズにしろベートベンにしろ同じことなのですね。
冷静に考えてみると、『リボルバー』までのビートルズって音楽的に何も大したことはやっていないのです。ただ彼らは歴史的な役割を見事に果たした、そのストーリーが今まで私たちを引きつけてやまなかった、そういうことに今になってやっと気付かされます。

故郷を流れる川の鮎を食わされた老人がボロボロ涙こぼしながら、「なんちゅうもんを食わしてくれたんや」と言っているのと心理構造的にはだいたい同じです。

とりあえず、Perfumeのお蔭で目からウロコが一枚落ちました。

掠れた文字 とPerfume

私の理解しているところのソシュール言語学というのは、
「物事は他との差異でしか表せない」というものですが、昔から、それが解せない。
本能が告げると申しますか、何か違和感を感じるのですね。

どこが違和感なのかは、曖昧ですが、
ただ、言語学者なら、このような結論に達するのは、むべなるかなと、思います。


私たちの使う漢字は、アルファベットと比べると、絵に近いものです。
それはおそらく、漢字発祥の中国古代に於いて、中央アジアを西から移動してきた民族と、長江河口から北上してきた民族が、河南省陝西省で出会い、言葉が通じないから絵を使ってコミュニケーションしていたからだろうと思われるのですが、

漢字を見たとき、私たちは、普通の場合、それを絵のように認識しません。香水の「香」を文字として認識することが主目的であるならば、どこそこの線がかすれているとか、角度が浅いとかそういうことはどうでもいいことです。重要なのは、「香」以外との区別がはっきりできるかどうかということだけです。

しかし、芸術の一ジャンルとしての書道として漢字が目の前に提出されると、私たちは線の太さとか角度とか色の濃さにこだわってしまいます。この場合、絵を見るのと同じ感覚で文字を眺めているわけでして、色や線のうねりにいちいち留意しているのですから、単なる文字として認識するよりも、脳みそはカロリーを消費します。



言語の処理は左の脳で行い、絵画的イメージは右の脳で行われていると言われていますが、
日本人は、漢字をただの文字として認識するときには左の脳で、書道として認識するときには右の脳で行なっているようです。
そして、非漢字圏の外人が、「香」の字を見たときに、恐らくは絵画を愛でるときに使用する右の脳が活性化するでしょう。
その外人は、「香」の文字が他の文字とどのような点で差別化が図られているのかについて知りませんから、全ての線にまんべんなく注意が行ってしまうでしょう。

日本人なら、「香」の文字をパッと見た時に、他との差異を表す記号として認識し、色の濃さ、止やはねの細かい誤差を無視した圧縮データ量で脳内処理しています。
非漢字圏の外人にとっては、どこに着目して差異を探り出せばわからないのですから、目に見えるままの視覚的データを脳にインプットしてしまい、フリーズを起こしてしまうはずです。


これは、アラビア文字について学んだことがないなら、日本人も同じような体験をすることができます。

どこに着目して、一個ずつの文字を切り出していっていいか分からない。それゆえ文字と文字との差異を区別するということが当然出来ない。
結果として、仕方ないから、全ての視覚データを脳にインプットしてしまい、あまりにもデータ量が多くて、フリーズしてしまう。

そうなりません?

そして、これも当然なことなのですが、文字の仕組みについて少々学んでみると、個々の文字がどのように組み合わさっているのかが分かりだし、そうなると、アラビア文字が左の脳で認識処理されているような実感を感じるのですね。たとえ意味が不明でも、これが文字であり、差異を表す記号の羅列ということがはっきり分かるだけで十分そう感じることができます。

これはアラビア文字以外の、珍しい文字ならどれでも同じことですし、発音にしたところでも大体同じです。
差異によって識別される記号という役割を、視覚的データなり音声データが持ち始めると、それらは脳の違う部分で処理され始めるのでしょう。


だから、差異というもので全てを語ろうとする態度は、言語学者なら当然のことだろうと私には思えます。


言語の面白い点というのは、個々の文字のみを記号として脳内処理しているのではなく、単語レベルで記号として脳内処理しているらしいことです。


同じ文章を、ひらがなだけでなく漢字を交えて書くと、読みやすくなりますが、それは漢字が記号として認識しやすいということであります。
漢字一文字を一目で認識できるのに、ひらがなの場合は「こうすい」という単語を四つの記号で表しているので、記号の数が増える分だけ、認識に手間取る、ということだと思いますが、

たしかに、漢字の方が読むのは楽ですけれど、ひらがなやアルファベットで単語を表記したからといって、私たちは、一字一字認識していたわけではなかったのですね。

そして、おそらく、標語とかスローガンレベルだと、センテンス一記号として認識しているはずです。覚えている覚えていない、聞いたことあるないじゃなくて、政府広報ならこの程度の内容だろう、という決め付けというべき記号化を私たちは行なっていないでしょうか?

スローガン、標語に対する不信感と不毛感は、わたくし、中国に住んでいたから、普通の日本人の数倍強いと思います。

それにしても、
この研究をした人は、偉い、というか、面白い。
ほとんど金にもならないような内容の研究ですが、これ読まされた人は、人生の謎が一つ減って、その分だけ気分が軽くなります。

実は、英単語にしても、単語レベルでひとつの図形的記号として認識しているわけでして、そうなると漢字と似たようなもんでしょう。
そして、それゆえ非英語圏の人間にとっては、一字一字ちまちま認識しつつ英単語の意味を脳内解析していたとしたら、まどろっこしくて、英語読もうなんて気にはなれません。

この英語力のラインを超えていかないと、日本人の国際化というのは見えてこないのでしょう。



音声に関しても、同様に言えまして、
生得的にヒトが認識しやすい音域が設定されており、その音域を使って人は喋るのですが、
各言語によって子音が多かったり少なかったり、その他の要因で微妙に言語に使う音域が異なります。
日本語は母音が多く子音が少ないですから、音声的には野太い部類。それに対して英語は子音が多いですから、私たちにとってはシャカシャカ雑音がなっているような発音が多い。

日本人にとっては、英語の音の多くは、言語認識の枠組みからずれたものが多いので、他との差異を表現する記号として脳の中に入ってこない。
記号ではなく、そのままの音として耳に入ってきやすいのです。

無論これも、訓練で克服できますが、日本人の外国語に対する苦手意識というのは音声学的にちゃんと理由があるのです。



JPN(通常盤)

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Perfumeというのは、韓流のような上から目線の「マーケティング」で出来上がったものではなく、偶然偶偶出来上がった美しい傑作なのですが、
アイドル志願の女の子三人に、作詞もさせず、機械みたいなダンスをさせ、ちゃんと歌を歌わせないだけでなく、音声を機械加工までする。そこまでしたあとに、「この状態で観客とコミュニケーションとってみろ!」と放り出すような鬼畜なゲームなのではないか?と私は考えているのですが、

その仕組みの一つ、声を機械的に加工してしまうことですが、
Perfumeを聞いていて、わかったことは、テクノのコンピューターの音の中では、機械的に加工された声は、埋没してしまう、というか、音の高さの近いコンピューター音と激しく競合しているように感じられます。

これはどういうことかと申しますと、人間は、普通、その注意が、人の顔と人の声に向いやすい。
人は生まれた時は、無防備で独力で生きていけない存在ですから、保護者との間にコミュニケーションをとる能力を先天的に獲得しています。
人間の声、人間の表情、人間のぬくもりに強く反応するように私たちはプログラムされているらしいのですが、
機械的に加工された彼女たちの声は、この優先枠から逸脱して、普通の音として扱われている、もしくはそのような傾向を帯びているらしいです。

機械的に加工された彼女たちの声に、ある種の物悲しさが宿っているように感じられるのは、そういう理屈があるからなのでしょう。
彼女たちが何を歌っているのかよくわからないのは、中田ヤスタカの詞がよくわからないからというのはもちろんありますでしょうけれども、
人は人の声に優先的に反応するという条件を剥奪された後の、遠い距離感が、「奇跡でも起こらない限り通じることのない想い」を演出している、私にはそのように思われます。

そして意外なことであり、当然なことなんですが、言語的要素を薄められた声は、記号的に処理されることが少なくなる分、そのまま音として認識される分だけ感情に響きやすい、そういう利点もあるようです。

実に多くの人が、機械加工された彼女たちの声を愛らしいと言っているのですね。

自殺防止月間なら小幡績氏がおすすめ 

昨日銭湯で聞いた話。

春休みなんでしょうか、大学生らしき人が帰省して、おそらく高校時代の同級生と一緒に銭湯で話していた内容。

原発のガレキってさ、周りの20キロくらいはもう人住めないんだから、そこにまとめておいときゃいいんだよね。なんで、全国に散らばらせるんだろ?もう原発の周辺に人住めないって、どうしてはっきり言わないんだろう。解決法はあるのに、それ実行できないだけなんだよね。もう民主党の政府になってからむちゃくちゃだよ」

「考えてみたら、麻生太郎って別に悪くなかったよね、漢字読めなかっただけで。それって、あそこまで騒ぐようなひどいことだったの?」

「財政の破綻って、人口減って年金払う人いなくなるからでしょ?そんなん子供作らない奴の責任じゃない。将来の年金払うのは今の子供たちで、その子供たち養うために親は頑張ってるんでしょ。自分の金を自分のためにしか使わない人たちとは差つけるべきだよ。そういう人には年金払わないとかして」

これら意見、2chを開けばいくらで書いてありそうなものばかりなのですが、
銭湯という公共の場、それも浴槽の中という周囲の他人が否応なしに聞かされてしまう場所で、淡々と語られると、
ものすごく、理路整然とした正論に聞こえてしまうのですね。

子供作らない人云々の箇所では、少々ドキっとするもんがありましたが、私個人の条件を無視すると、これはたしかに正論だわ、と思わざるを得ませんでした。

2chやそれに類する箇所に書き込まれると、どんな意見でも色物キワモノに見えてしまうのですが、ちゃんと場所と口調をわきまえて語られると古舘伊知郎とかのニュースショーよりもはるかに説得力があるということを実感いたしました。


コミュニケーションというものは、言葉というものだけで成り立つのではなく、ノンバーバルな条件が対位法的に参画して出来上がるものだと、風呂屋の話で思い知らされました。



民主党云々の箇所ですが、
三年前のリーマンショック後のガソリン価格高騰の時、「ガソリン値下げ隊」ということをおっしゃっていましたが、
その実現の如何は別として(鳩山由紀夫の温暖化防止のCO2うんたらとの兼ね合い考えると、選挙前の釣りとは言え、何を言っていたんですか、あなたがたは、というレベルの話なんですけれども)、
私が、一番気になるのは、「ガソリン値下げ隊」という秋元康的なネーミングセンスです。

民主党って秋元康とどこかで繋がってんの?と、ずっと私は思ってきたのですが、


これ、本来「GKB48」とか命名されていたプロジェクトです。GKBがゴキブリと読めてしまうことなどから、このネーミングを撤回したらしいんですが、

自殺しようと考えている人たちとAKBのファン層って重なるもんなのでしょうか?
AKBという極めていびつな商法に依拠した芸能集団が自殺軽減に効果があるという下調べでもあったんでしょうか?

今の世相で、問題なのは、若年層ではなく中年の自殺と違うんですか?そして、それは主に経済的な問題を理由としているのではないでしょうか?

いくらなんでも、自殺志願者を馬鹿にしてませんか?AKBのファンになったら生きる望みでも湧いてくるとでも?

クールジャパンと称して、政府から日本のエンタメの輸出のために予算が割かれ、シンガポールにAKBの写真の刷られた二階建てバスが走っているという事実もありますけど、

なんで、私たちの国家予算は秋元康の方に流れるのでしょうか?

いつから、どういう関係なんでしょう?

私の場合だと、AKBという商法のことを考えると、人類は百年もたないという悲観論に傾いてしまいます。こんなくだらないビジネスモデルがあるんだったら、人は危機的な状況において平然と他人の屍を踏みにじるだろう位にしか思えません。


だったら、あんたの好きなPerfumeが自殺防止のキャラだったらいいのか?というと、そうでもないんですね。

Perfumeファンは、彼女たちに人生を救ってもらいたいなんて最初から思わない。
ナデシコJapanに人生救ってもらいたいと考える人なんていますか?ナデシコ応援する人は、「感動をありがとう」それだけですよ。

感動できる時に、人はまだ死なない。そして、AKBは感動できないし、韓流も感動できない。後ろに仄見えるビジネスモデルに辟易するだけ。




「3月は自殺防止強化月間です」
このいかにもお役所仕事的な言い草。だったら四月に死ぬ分には、自分たちの責任ではないとでも?





前半がアメリカの経済状況に関する話で、後半4分くらいからPerfumeの話になるのですが、「調査のためにPerfumeのファンクラブに入ったんだけど、その費用を大学が調査費で落としてくれなかった」とおっしゃっていますが、AKBの場合だったら、絶対経費で落ちるような気がします。
あれに関しては、ビジネスが透けて見えすぎますんで。

ポップミュージックって素晴らしいな、と思わさせられるのは、趣味としてはとことん金がかからず全ての人にほぼ平等に開かれているという点です。
どれだけ金のない人でも、2000円持ってネカフェに行ってyoutubeでPV全部見ろ、と。ついでに、小幡績氏のこれ聞きなさい、と。
Perfumeのライブが楽しいってのは、彼女たち自身が楽しんでいるからって理由によると思うのですが、
小幡氏のしゃべりを聞いていると、純粋に無欲に楽しんでいる人というのは、傍観者まで楽しくさせてくれるというのがよくわかります。

Perfumeのファンになってわかることなんですが、beatlesが伝説になれたのは、階級でガランじめだった英国で、所得格差関係なく全階級が楽しめた安い娯楽という側面があったことを理解しないといけないのでしょう。

ポップミュージックって金かかんないんですよ。これが、趣味がヨットで、ヨットへの愛を熱く語られると、金ない庶民にはうざいだけでしょ。
ポップミュージックって、金かかんないんですわ。世界に一体感を感じさせるには、金かかんないってのがポイントです。


それゆえ、ボッタクリビジネスモデル推進しているAKBが、経済的理由から自殺しそうな人をひきとどめることができるとは、私には思えないんですね。