共感覚と料理と それからPerfume
世界最初のオーケストラはトルコの軍楽隊、という説がありますが、
世界初とか歴史上最初ってのは、大概、言ったもん勝ちですから。こういう言ったもん勝ち的なことは、イギリス人と中国人が得意です。
モンゴルが日本に攻めてきたとき、銅鑼や爆薬を使って馬を怯えさせる戦法を取りました。
歴史的には、相当の昔から音楽を兵器として用いることは行われていたのですが、
モンゴルと同じ騎馬民族のトルコが16世紀17世紀にウィーンを包囲したとき、オーストリア人は、相当にトルコの軍楽隊の音を聞かされ、その影響があったのでしょう、クラッシックの大仰な表現には、音楽兵器のルーツがあるのだろうと私は考えております。
ベートーベン、大仰なんですが、『運命』という交響曲、時代の精神とそれに関わる個人の運命みたいなことを表現しているのでしょうが、かなり抽象的なので、なんとでも解釈できそうです。
それと比べると、クラッシック音楽が「古典」と崇められ、そして一般人から見捨てられてしまう頃に流行った「交響詩」というジャンル、
物語を音楽で表現しようという試みなんですが、
私にとっては、俗っぽい名人芸にしか思えないんですね。
言葉で表現するはずの物語を、音という違うものを使ってどこまで表現できるかという、異種格闘技のようないびつなものにしか思われないのです。
「なんで、素直に、言葉で表現しないのよ」とか思うんですが、
案の定、これ以降クラッシックは一部の「文化的エリート」、まあ、私から見ると「鼻持ちならない権威主義者」だけのものに堕して歴史から消えていきます。
しかしながら、「物語により流れる視覚イメージを音だけで表そう」という、共感覚的な試みというのは、非常に面白いテーマでありまして、
100年前のクラッシックの方々が、今になって思うと、低俗な名人芸にしか思えないというのは、彼らの共感覚に対する認識が稚拙だったからだろう、とわたしなんかは思っています。
共感覚
簡単に言うと、映像を音楽に簡単に脳内変換できる能力で、それら五感の区別の曖昧な人たちは障害者のようでもあり天才のようでもあります。
相当たくさんの音楽家の名前が列挙されておりますが、ポールマッカートニーやモーツアルトもそうだったと私は聞いたことがあります。
マイルス・デイヴィスの代表作『kind of blue』彼は音に色が見えたそうです。
わたくし、音と映像が脳内変換できる人間ではないのですが、それでも、マイルス・デイヴィスはこういう映像を伝えようとしているのではないだろうか?ということはわからないでもない、というか、分かるような気もするのですね。
憂鬱のことを、英語でblueと表現しますけれど、そのことについては、たいていの人が納得しているのではないでしょうか、
「音に色がついて見える」という人は少数派であるとしても、言われてみればそんな気もするレベルでは、みんな感じているのだと私は思います。大体、音色という単語もありますし。
黄色い声、腹黒い、赤の他人、なんでそれを色で表すのよ?的ないいわましはいくらでもあります。
わたくし、ある時に気がついたのですが、味覚というのは実は単純な識別能力にすぎず、甘い、酸っぱい、塩辛い、苦い、程度の区別が出来るだけであり、
美食の世界というのは、ほとんどが嗅覚、触覚、視覚、聴覚等のその他の五感に依拠しているのですね。
以下、共感覚について小学生に国語を教える風に語ってみる。
問題一 下の文を読んで、よく書けていると思う部分を抜き出し、その理由を書きなさい。
食通で知られた作家の池波正太郎が子供の頃、正月の楽しみは、11日に祖母が橙色の汁を茶碗に絞り、たっぷりと砂糖を加え、熱湯をさして、「さあ、風邪を引かないようにおあがり」と言って出してくれる飲み物だったという。
オレンジでもない、みかんでもない、橙の汁の風味はもっと濃厚で、酸味が強く、香りも素晴らしい。これを泥行火へ足を突っ込んで足を突っ込んで、ふうふう言いながら飲むと、小さな体にたちまち汗がにじんでくる。その暖かさ、そのうまさはなんともいえぬ幸福感を伴っていた。
もし私が学習塾でアルバイトしていたとき、こういうノリで授業してた。
「おまえら、文章の法則教えたる。文章で一番大切なのって、どこよ?・・・そう最後の文章。で、どうして文章の最後が一番大切か分かるかね?何で?
それは文章の最後が一番大切だと普通の大人が思っているからよ、それだけ。いいかね、べつに文章のどこが大切でも構わないのよ。そんなの書く人の自由だわさ。でもね、文章の最後が一番重要だというのは社会の偉い人たちのルールなの、実は。
おまえさ、回転寿司行ってチャーシュー面くださいとか言うか?トイレの水詰まったらNTTに電話するか?しないだろ、そういうことするやつ身近にいたらヤだろ?それにフランス料理屋のお勧めメニューがてんぷら定食だったら、食いたいと思うか?思わんやろ。
仮におまえらが50才になったとして、そん時までに今までの何倍本を読むことになると思う?10倍?100倍?もっと、か?
で、そういう風にたくさん本を読んできた大人が、一番大切なことは、最後の文章に書いてあると思い込んでるわけ。ハンバーガー食いたいときはマックに行くとかと同じなのよ。お前らもいい作文書きたかったら、最後の一文バシッと決めなさい。いいね。
で、最後の文章だけど
「その暖かさ、そのうまさはなんともいえぬ幸福感を伴っていた」
この文章で一番大切な言葉・単語ってどれよ?
この作者、何を言いたいの?答えてみい。水森君よ、何についての文章よ?
‥・うまさについて、かぁ、どうして?・‥最後の文の主語だから? …30点。
ほかには? …幸福感?どうして?…最後の文の述語だから? まあ、・・・60点。
全部足しても100にならんやろって? 残りの10点は、暖かさ。
この文の主語って、暖かさとうまさの二つなんだわ。で、述語が幸福感。
一番大切なもの何って聞かれたから、一つだけ答えたのに、答え三つっておかしくないですか、ってか? ごちゃごちゃうるさい。一番大切なもの三つあって何がおかしい? な、そうだろ、堀河君よ、一番大切なものって、誰だって三つくらい持ってるよな。一番好きな人だって、三人くらいいるよな。で、お前の一番好きな人って誰よ?
じゃあ、そしたら、この文章の中に幸せなものっていくつ書かれている?
なんかよく分からんけど、この橙色のジュースがまず一つだわな。其れは誰でもわかるのよ。で、それ以外?
一つは、お正月。小野寺君、正月好きか?・・・まあ金いっぱいもらえるからな。で、昔の人は今の人よりもっと正月好きだったのよ。別に今の人よりたくさんお年玉もらってたわけじゃなくて、休みが正月と盆しかなかったんだわな。そりゃ正月たのしいさ。
それから、泥行火。昔の人の暖房器具だわさ。昔の家って、エアコンなかったから今より寒かったんよ。無論床暖房、まきストーブもないし、お寒い限りです。そんな時炭かなにかで暖める行火って、うれしかったんよ。あったかい物ほとんど無いときに、ちょっとあったかい物あると、すごくうれしいんだわ
で、それでぬくぬく暖まってオレンジ色のジュースもどき飲んでると、汗流れてくるんだってね。これすごい贅沢なのよ、分かる? 浅沼君、お前さ、 真冬の一番寒いときに、海パン一枚で室温32度に設定したら、母親からぶっとばされるだろ? もったいないことすなーって。
まだもう一つあるんだわ。幸せを感じさせてくれる物が。 ・・暖かさ? 残念、実はそれ泥行火のことなんだわ。分かる人いる? どうよ鶴羽さん、優秀なあなたでも分からない?
実は、おばあさんなんだわ。おばあさん好き?そのおばあさんがさ、冬の一番寒い頃に、みかんか何か絞ってジュース作ってくれるんよ。手絞りでめんどくさいし、指も冷たいし。で、おまえは泥行火でぬくぬく暖まってるだけ。これ幸せでしょ。
この中でおばあさん二人とも死んだ人いる?そうか、残念だったなぁ。でもね、ここにいる人全員のおばあさんとおじいさんって、みんないつか死ぬのよ。それからここにいる全員のお父さんとお母さんも その内死んじゃう。それにいつかはここにいる人みんな死ぬんだわ。
それはいいとして、大人になって子供の頃におばあさんのこと思い出すと、幸せな気持ちになるもんなのよ。風引いたらだめだからって、寒い中わざわざジュース作ってくれるわけでしょ。ありがたいわさ。大人になったら人の面倒見るばっかりで、面倒見てくれる人ほとんどいなくなるでしょ。なんか疲れた日に、そういうこと思い出すと、楽しくなってくるんだわね。
小学生あいてならこの辺で止めておきます。大人が高校生だったら以下の様な内容が付け加わります。
「 まず、この池波正太郎についての文章から直接味覚を描写している箇所を摘出してみよう。
・たっぷりと砂糖を加え、
・風味はもっと濃厚で、酸味が強く、
実はこれだけしかない。オレンジ、みかんに味が似ている、という記述から、大まかな味が推測できるので、それも直接味覚を記述した箇所とし、その三要素だけで文章を組み立ててみると、
『ジュースには、砂糖がたっぷり加えられており、オレンジやみかんよりもっと濃厚で、酸味が強い味だった』
逆説的に聞こえるかもしれないが、味覚表現だけで、味を表現しようとすると実になんとも味気ないものになる。
また、これは味覚表現に限らない表現技法だが、相手が見聞きしたことの無い物を説明するときに、相手が既に知っているものをたたき台として提示し、それに細かな修正を加えてやる方法はよく使われる。
例
・ 空飛ぶ以外はスーパーマンと同じことが出来る人
・ 常盤貴子の顔幅を5センチ狭くし、目をもう少し小粒にしたような美少女
・ 青蛙の味は、白身魚と鶏肉の中間のような味で非常に淡白だが、雨上がりの雑草を刈り取った後のような香りが気に入らない人もいる。
こういうやり方によって、相手にかなり明晰なイメージを伝えることが可能になる。
この、池波正太郎の場合は、オレンジとミカンがたたき台として非常に上手く機能している。
では、味覚以外の感覚についての描写箇所を抜き出してみよう
視覚に関わる箇所
・橙色、オレンジ、みかん という同傾向色のグラデーション
嗅覚に関わる箇所
・香りも素晴らしい
触覚に関わる箇所(主として温度に関する)
・熱湯
・ 泥行火
・ 汗がにじんでくる
・ その暖かさ
既に分かるとおり、味を表現するには、味覚以外の感覚の方が重要なのである。本当のところ、味は食べて見なければ分からない。表現する側に出来ることは、それと似たような別の物を使って表すことでしかない。
味覚とは、本来口に入れる物が、毒か無毒かを判別する為の機能であり、うまいまずいは二義的なものに過ぎなかった。腐っているか毒なのかというネガティブな方面については活き活きと味覚は反応するが、うまいのか、そしてどのようにうまいのかということに対しては、実のところそれほど敏感な機能ではない。
味わうとは、五感全ての総合的体験ということもできる。だが、料理をただ感覚的なものとして捉えた場合、本当の料理上手にはなれない。
なぜレストランが内装にこだわるのか、なぜ母の日に子供が作った料理に母親は感動するのか、なぜ旅の記憶を思い出させる料理は美味いのか?
私たちが美味を感じる認識の過程には、料理に潜むストーリーという知的な作用が働いていることを理解すべきである。
だから、料理上手は常に、料理の中にストーリーを盛り込む。
Perfumeが人を泣かすのは、最初のライブの客が五人のうち三人がサクラだった。そして下積みを吸うねん経て東京ドームで5万人ライブを実現するというサクセスストーリーを音楽の中に重ねているから、というのは間違いないでしょう。
私たちは、音楽の中にストーリーを盛り付けられ、気づかぬうちにまんまとそれを飲み込まされています。
そして、これはPerfumeに限ったことでなく、ビートルズにしろベートベンにしろ同じことなのですね。
冷静に考えてみると、『リボルバー』までのビートルズって音楽的に何も大したことはやっていないのです。ただ彼らは歴史的な役割を見事に果たした、そのストーリーが今まで私たちを引きつけてやまなかった、そういうことに今になってやっと気付かされます。
故郷を流れる川の鮎を食わされた老人がボロボロ涙こぼしながら、「なんちゅうもんを食わしてくれたんや」と言っているのと心理構造的にはだいたい同じです。
とりあえず、Perfumeのお蔭で目からウロコが一枚落ちました。