『Spring of Life』 武道館 JPNツアー千秋楽
Perfume Spring Of Life live 武道館
という動画がyoutubeにアップされており、
JPNツアーの時のものなんですが、何のために撮影されたんですか? 知っている御仁いらっしゃいましたら教えてください。
お願いします。
ついでにJPNの埼玉スーパーアリーナも何のために撮影されたんですか? 知っている御仁…
まあ、それはともかく、
このSpring of Life について、自分で文書くのがめんどくさくて、
「誰か私の代わりに書いてください」と頼んだら、
だいたい自分が言いたいことを誰かが代わりに書いてくれるような程の人望がブログ主のあり、
自分似たような考え方の人物がこのブログを読んでいるくらいこのブログが多くの人の目に留まるようであれば、
ほんと、そういう人たちに、編集権も公平に譲り渡したいもんですが、
それは無理っちゅうもん、でしょうか。
そんで夜な夜な自分で書くのですが、
Perfumeファンの間での批判で多いものが、
レコード会社の移籍によってチームワークが崩れた、というもの。
このビデオクリップの時の
JPNツアーは、当時の最新アルバム『JPN』が徳間だったんですけど、最新シングルの『Spring of Life』がユニヴァーサルで、
なんか中途半端だったんですが、
それゆえ、『Spring of Life』に対する評価も、人によって結構ブレがあります。
私は、基本的に、この曲好きなんです。
この曲の海外での成果がゼロだったので、次の『Spending All My Time』で歌詞・振り付けともども海外受けを考慮したものになったのでしょうが、
その前段階の『Spring…』に関しましては、振り付けはすがすがしいまでに「盆踊り」しています。
逆の例でいうと、『Party Maker』なんですが、
海外で勝負するためにEDMに擦り寄り、ダンスのレベルでアメリカでも勝負できるように、
という方法論だと、
ファンもどこかで、
夢から醒めてしまったわけで、
「アメリカのエンタメの実力と層の厚さは、化け物レベル。そこに直球勝負挑むのは、何か間違ってないか?」
とくに、あ~ちゃんが浮き上がって見える。Perfumeって基本手踊りですから、手の短いあ~ちゃんの存在って、そういう路線ではマイナス要因にしかならんわけです。
無論、
エンタメの本場のアメリカでもいい加減な紛い物が成功を収めることはいくらでもありますが、
そういう紛い物が成功を収めるにしても、彼らなりのものすごい貪欲な血のにじむような努力や戦術があるわけです。江南スタイルとかって恐らくそうなのでしょう。
(なんか書いていて集中力が続かない)
前回取り上げた⊿横浜アリーナの『マカロニ』と比べると、この『Spring of Life』はビデオクリップ単体での作品として成り立っていません。
『クリンクリン』とも共通する問題なんですが、PVの舞台設定と製作に力入れすぎると、
舞台上の振り付けがPVの再現に終始してしまう。
なんで間奏のところであ~ちゃんが動けなくなって、それをわきの二人が助け上げなくてはならないのかが、PV見てない人にはほとんどピンとこない。
これ絶対振付師のミスですわ。
あと、
⊿横浜アリーナの『マカロニ』のように三人三様の表情をうまく積み重ねていくような演出と編集がなされておらず、
顔芸はあ~ちゃんひとりにのっかかっているようなクリップになっていて、
本当はのっちもそれなりにいい表情してたんじゃないか?と思うんですけど、
このクリップの印象は、ほとんどの人が、あ~ちゃんの笑顔ではないでしょうか?
これいこうのPerfumeのちぐはぐ感って、顔芸担当者をあ~ちゃんにしてしまい、のっちは踊り専門みたいな扱いにしてしまってことが大きな要因かもしれません。
ベビメタだと、そういう役割分担でうまく行ってるんですけどね。
三人のパフォーマンス自体は『マカロニ』と『Spring of Life』にそこまで差はないと思うのですが、
youtubeにアップされてしまうと、相当にレベルが違って見えます。
「それは 突然 始まる奇跡」
『エレクトロ…』『リラックス…』でも見られるこの振り付け、
目的地はずっと遠い場所という意味の振り付けですが、
奇跡の起こる場所ってずっと遠い場所で、
そこを目視するにはおでこの上で手のひらを覆いにしないといけない、
そして、そこまで歩いていくには、そうとうの覚悟が必要、そういう意味なんですが、
PVだと、奇跡の起こる場所に行きつく前に電源が切れて死んでしまいます。
PVにあった、濃厚な死のにおいが無くなると、ライブのパフォーマンスもかなりつまらないものになってしまいまして、
「始めようよ、Spring Up Speed Up」
一人ずつドタバタ踊りで前に出ていって、
PVだと、前まで行ったときに電源が切れて数瞬間真っ暗になります。
PVの電源消失の演出って、ラストの電源消失によって補強されますけれども、
「最高を求めて終わりのない旅」をした個人が行き着いた最後のポイントって、そういうブッツリとしたもので、
そういう思いでPV見てると、感動的なんですが、
ライブでは、そういう物語、全部吹き飛んだんですよね。
まあ、でも、似たような事例でいうと『ねえ』もそうでした。
PVの深みをライブで出すこと、ほぼ放棄してました。
たぶん、三人の演技(いや、内面表出力といった方がいいかもしれん)とか振り付け師の力量以上のPVができてしまった場合、Perfumeではどうなったのか?の事例みたいなもんでしょうか?