『ドリーム・ランド』から大船往きの『スター・トレイン』

下の画像は第二回の東京ドーム。

『ドリーム・ランド』に合わせて、天使の卵が天井から降ってくるという演出。スペクタクルとして素晴らしいものでした。

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 この曲、そしてこの演出が、Perfumeにとっての二度目の区切りらしく、

第一回目のドーム公演の開幕の儀式と相似形であるようです。

 

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何度も何度もこのブログの中で書いたことですが、

Perfumeの詞の基本的世界って、

自分のことをぼくと呼ぶ少年が相手の女の子のことをきみと呼ぶ、という微妙な男女の距離感の世界です。

時には女の子が相手の男の子のことをきみと呼ぶこともあります。

 

英語とか中国語でしたら、恋人のことを第二人称で呼ぶシチュエーションは普通にありますが、

日本語の場合、相手を第二人称で呼ぶ機会はほとんどありません。仲良ければ、名前で読んだり、おい、とか、ちょっと、とか言うだけです。

逆に、初対面の場合ですと、名詞を受け取ったらすぐに、相手の名前にさんを付けて呼ばないといけないプレッシャーにさらされます。

 

男の子と女の子が、ぼくときみと呼び合うのは、実のところリアリティの欠如した人間関係のように見えるのですが、

実のところ、そのようなPerfumeの詞の主人公たちは、本当のことを言うと人間関係成り立っていない、つまり一つの世界を共有していないらしいのです。

 

何度も書いたことですが、

男の子と女の子はSF的なシチュエーションの場合ならパラレルワールドに住んでいて相手の存在を感じはしても実態に触れあうことができない。

顕著な例ですと『エレクトロ・ワールド』、それから『Voice』もそうでしょうか。

現実的なシチュエーションの場合なら、男の子と女の子は全く別のことを考えている。

例えば、『Spice』の「同じ部屋で触れていても、距離は遠くに感じてるの」とかがそうですし、『ねえ』もそうですね。『ナチュラルに恋して』とか『不自然なガール』もそうでしょうか。

そして『リラックス・イン・ザ・シティ』は幸せそうな歌に聞こえますけれども、多分女の子の側に君と呼ばれている男の子はいない。女の子は一人ぼっちのはずです。

 

そしてそんな一つの世界を共有していない男の子と女の子が何かのきっかけで一つの世界の中で出会う瞬間が、Perfumeの演劇的なパフォーマンスの一番の殺しどころでして、『マカロニ』ってそういう曲ですし、『ポリリズム』が感動的なのもそこです。

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「ほんの少しのぼくの気持ちがきみに伝わる、そう信じてる」

「とても大事なきみの思いは無駄にならない、世界は回る」

この男の子と女の子も、一つの世界を共有していないらしいです。でも、二つの世界ってどこかでつながっていて、互いの存在を感じ合うことができるらしいんですね。

 

このスタイルがPerfumeの、というか中田ヤスタカPerfumeに対する基本方針なのでしょう。

中田ヤスタカは、自分の思うところをアイドルの口を借りて語らせることはしない。そして自分が思いもしないことを「アイドルなら言いそうだから」というだけの理由で詞にしたりはしない。

彼はあくまで、短編小説というか短編映画の脚本のような詞を作り、アイドルの三人は主役としてその登場人物を演じる、Perfumeのすごさって、そういう基本方針を発展させた演劇性のすばらしさにあったのではないでしょうか。

 

そして、何年も続けていけば、

傍にいるのに触れ合うことのできない男女関係って、煮詰まって来ますし、

「いつまでも子供同士じゃないんだから、相手をしっかり抱きしめたらどうだ」的な歯がゆさがつのっていきます。

 

下の画像は、エヴァンゲリオンのリメイクの第二作のラストです。ぐだぐだとネガティブな少年が、自分の好きな女の子にはっきりと愛情を告げて、その言葉の責任を取るためにがむしゃらになるシーンですが、

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 エヴァンゲリオンって、グダグダしている男の子の物語ですから、物語りの中間地点でこんなことしちゃうと、この先話続かないだろと私は思ってしまいました。

そしたら案の定というか、この次の第三作目では、なんか訳のわからないパラレルワールドの話になってしまい、もうみんな唖然茫然。

 

 

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そして、Perfumeの『ドリーム・ランド』に対しても、似たような感慨を私は持っていました。

「まだ戻れるよ、ぼくがきみの腕を引くから」

この一行、エヴァンゲリオンですよね。

 

『ドリーム・ランド』の詞を読んでいますと、「come again まだ戻れるよ」ってどこに戻るのだろうかはっきりしません。

夢の廃墟にしがみついてジャンキーになりかけの人が現実の世界に戻れるということでしょうか、それとも、現実の世界ですり切れた人がまだ子供の時の夢の世界に戻れるという意味でしょうか?

 

わたしは、ミヒャエル・エンデの小説『ネヴァー・エンディング・ストーリー』的に、夢の廃墟にしがみついてジャンキーになりかけの人が現実の世界に戻るチャンスについての方が主だという気がします。

そして、Perfumeがこんな歌うたったら、次の展開いったいどうするんだよ?演じ分ける女の子と男の子のイメージが無くなっちゃうじゃないという危惧がどこかにありました。

 

第二回のドーム公演でも、

私たちは自分たちの夢かなえたんじゃけん、次はあんたたちが自分の夢をかなえる番よとでも言わんばかりに、天使の卵が上から降ってきて、三人はステージの奥の大きな卵型のドームにあたかも天岩戸ごもりするように収容されていきました。

 

えっ、次は俺の番?って説教はいいけどさ、あんたたちこれからどうすんの?延々と説教だけ続けていく訳?

 

 

 

 

これが二年前の話です。

そして、やっと、『ドリーム・ランド』の物語のつづきが『スター・トレイン』で語られたような気がします。

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男の子と女の子は、宮沢賢治の小説のジョバンニとカンパネルラのように、もしくは『銀河鉄道999』の鉄郎とメーテルのように二人で蒸気機関車に乗り込んで、どこまでもいくと誓い合ったように私には感じられます。

 

今後のPerfumeに於いては、詞の世界に演じ分けるべき二人の人物が存在せず、今までのような演劇性はトーンダウンしていくかもしれません。