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セカイ系とは、僕と君とその周辺で完結するセカイを救うお話である。
評論家の東浩紀らによって発刊された『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注による定義では、
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」とされている。
そのまんま村上春樹の小説の定義とでもいえそう。もしくはエヴァンゲリオンについての解説とも。
Perfumeはどうなのか?というと、中田ヤスタカの詞の世界はセカイ系的ですが、
その上に映像の解釈、振り付けの解釈が上塗りされた時点で、セカイから現実の世界にずっと近い場所にあるような気がします。
そして一番でかいのは、Perfumeはベビメタと違って、この手のほら話で固めた自己設定ストーリーを放棄した点。
ベビメタってあくまでもメタルレジスタンスというほら話をやり手も受け手も受け入れるというプロレス的な御約束事の世界ですが、
Pefumeって、『シークレット・シークレット』のようなSF設定を、継子扱いして都合いい時だけ思い出したように持ち出してくる。
PerfumeにとってSF設定よりも重要なのは、Perfume自身の成り上がりサクセスストーリーで、
ベビメタにとっての紙芝居って、Perfumeの場合はあ~ちゃんの涙まじりの苦労話らしい。
Perfumeって表現の在り方として、小説のような一人作業ではなく、アニメのような裏方に回る人たちを監督という独裁者が指揮した者とは違って、
非常に世界に対して開かれた在り方をしてた、まあ、アイドルって人に好かれてなんぼのものですから、
だから、中田ヤスタカの詞のセカイって、最初から崩れることを前提としてPerfumeに投入されたもののような気がします。
だって、きゃりーぱみゅぱみゅの詞って、もっとずっとシンプルでしょ?
中田ヤスタカはセカイ系的な資質持ってるのは間違いないでしょうが、セカイ系=中田の本質とは違うのではないか、
彼にとって、自身の中で時々目覚めるセカイ系の資質をPerfumeというプロジェクトに向かって意図的に捨てていた、
そう考えると、わたし的には、腑に落ちる点が多いです。